南蛮寺 正覚寺 天草市有明町上津浦
天草市有明町上津浦は天草五人衆、上津浦氏の拠点であった。この正覚寺ももともとは上津浦氏の菩提寺であったのかも知れない。上津浦氏がキリシタンに帰依したとき、仏寺からキリシタン寺へ衣替えしたのだろう。(私見)
有明町は五人衆時代から天草・島原の乱にかけて天草の歴史の表舞台に登場した場所であり、上津浦氏の居城であった上津浦城址や、乱の史跡、また島原大変・肥後迷惑の犠牲者を弔った碑など魅力ある史跡が多い。しかし、旧有明町はこれら歴史遺産の保存には熱心であったとは言い難い。天草市になったことで、有明町だけでなく、天草全体の史跡保存に取り組んでもらいたいと思う。
以下案内板より
上津浦南蛮寺とキリシタン墓碑
天草五人衆に列する豪族上津浦種直が、キリシタン宗門に帰依し、洗礼名ドン・ホクロンを名のったのは、宇土城主ドン・アウグスチノ小西行長に服属していた天正18年(1590)のことである。かくしてこの地には、南蛮寺が建立され、全領民の間に信仰の火が燃えひろがった。
しかし、慶長19年(1614)徳川家康のバテレン大追放令により、マルコス・フェラロ神父が救世使天草四郎の出生を予言した「末鑑の書」を残してマカオに去り、南蛮寺は破壊されてしまう。
しかし、寛永14年(1637)上津浦古城を前進拠点として天草の乱がおこり、近郷近在は、荒廃をきわめる「亡所」と化してしまった。
乱平定後、天草の再建策をすすめる名代官鈴木重成は、仏教による邪教根絶と民心安定を念願し、南蛮寺跡に圓明山正覚寺を創建とした。正保3年(1646)のことである。以来、339年の歳月をけみした昭和60年1月17日、住職亀子俊道師が大改築のため本堂を改体したところ、ここに展示する扁平型、自然石型、かまぼこ型、以上三様式のキリシタン墓碑基が、その床下から出現したのである。□かまぼこ型二基の正面には、イエズス会の略紋章を示す「IHS」の文字と十字架がきり刻まれている。十字架は、いわゆる干十字、その左右には人名と没年月がみられる彫り込み有するが、のみか何かで人為的に削り取られ判読困難である。
それでも、ながいながい眠りから醒めたキリシタン墓碑は、見るものに、偉大だった天草の世紀を語りかけてやまない。
南蛮寺
天正17年(1589年)上津浦城主ホクロン殿が建立した南蛮寺は、キリシタンの布教活動の拠点であった。最盛期には3500人を超える信徒が上津浦城主の庇護の下にキリシタンに帰依し、ここには宣教師も駐在していたが、天草・島原の乱の跡は弾圧を受け、南蛮寺も破壊されその跡には仏教寺である正覚寺が建てられた。昭和60年、本堂の改築の際に発見されたキリシタン墓碑には、IHSのイエズス会の紋章と十字架が彫りこまれており、南蛮寺興亡のいい伝えが歴史的事実として裏付けられた。杉小立に囲まれた境内には、キリシタンの司者が植え付けたといわれる樹齢約400年の南蛮樹(ナギの木)が今もあり、往時の面影を伝えている。
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