歴史目次  散歩道目次へ 2010/07/11UP

口之津の資料館


 「船が口之津港を出てゆくとき、岬の突端にある旧税関の茶色っぽい建物が風景によく適っていた。朽ちくずれるままに放置するよりも、大蔵省から町に払い下げてもらって、こんにちまでの口之津のすべてを語る博物館にすればどうだろうと思ったりした。」

 司馬遼太郎の「街道をゆく 17 島原半島 天草の諸島」の中の一節である。

 先日島原半島の史跡などを探見した。

 口之津はその島原半島の南突端にある。天草・鬼池港からフェリーでわずか30分のところにあるが、県が違うということもあり、なかなか訪れることがない。

 天草は、現在というよりもともと肥後の国・熊本県に属しているが、江戸時代は、島原藩預かりや長崎代官所支配の時代も長く、更に地理的にも近いとあって、文化的には長崎県に近い。また、天草島原の乱当時は、唐津藩・寺沢氏の支配下にあった。

 さて、恥ずかしながら、口之津の海の資料館は初めて訪れた。
 先に紹介した、司馬遼太郎は、何年何月に同地を訪れたかを同書に書いていないが、週刊朝日に掲載されたのが、1980年だから、それからすると約30年前になる。
 当時は、この資料館はなく、司馬遼太郎は、建物も、資料も有効に活用されていないことに、もったいないと感じていたのだろう。
 司馬遼太郎の献策があったから、この資料館ができたのかどうかは分からないが、見事な資料館ができていた。
 天草でも、先日立派な天草キリシタン館ができたが、ここの資料館との比ではないと感じた。
 建物は天草キリシタン館が立派だが、資料の数や内容は比べることが恥ずかしいくらいだ。

 まだこの資料館に行ったことがない人のために、資料の種類を紹介すると、南蛮船時代、石炭の運搬船でにぎわった頃の資料、民俗資料、戦争の資料、からゆきさんの資料、与論館などそこらへんの博物館に劣らない資料がいっぱいだ。

 口之津が三池炭鉱で掘った石炭を、ここ口之津港からシンガーポールに輸出していたとはつゆ知らなかった。
 また、天草も関係の深いからゆきさんや戦争の資料館は天草にはない。

 また、南西諸島の与論島からも多数の人々が、口之津に移住していたことも知らなかった。
 
 館長の説明もユーモアに富んで素晴らしく、もう一度、訪れたい資料館である。


口之津の「海の資料館・歴史民俗資料館」のバンプ (PDF)

資料1
資料2
資料3