松室五郎左衛門 | |
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下浦石工の元祖 松室五郎左衛門 五郎左衛門は、もと肥前白石藩の藩士であったという。 その藩士がいかなる理由で、天草郡下浦町に住み着き、しかも石工の技術を伝えたのか、皆目分からない。 そのことを僅かに伝える、『天草近代年譜』 松田唯雄著には、次のように記されている。 貞享元年(1684) この歳 下浦村石工の元祖松室五郎左衛門没す。同人は元肥前白石藩士、故あって浪人し、天草にきて、同村字石場に移り住み石工となる。没後花岡神社として祀られる。 但し、五郎左衛門が没したのは、天明三年(1783)で、年譜の間違い。 |
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下浦石工元祖松室五郎左衛門の墓 天草市下浦町 | |
松室五郎左衛門の墓は、石場地区の共同墓地にある。 新墓石には、「南無阿弥陀仏 隋山了順信士 善誉智浄居士 天明三卯年十二月廿七日」 旧墓石には 「天明三□ 十二月廿七日 隋山了順信士 肥前住人俗名五郎左衛門」 と刻まれている。 天草市指定文化財 下浦石工元祖 松室五郎左衛門の墓 指定年月日 昭和59年1月9日 管理者 石場区 下浦石工は江戸中期頃より活躍した石工集団である。天草各地の墓碑、鳥居、石橋の多くを製作し、さらに海運を利用し九州各地で石造物を手がけた。玉東町周辺に残る西南戦争時の官軍墓地や長崎市のオランダ坂・グラバー邸の石畳も下浦石工の手によるものである。 下浦石工の元祖と伝えられる松室五郎左衛門は、元肥前国白石藩(佐賀県杵島郡白石)の藩士で、わけあって浪人し、宝暦10年(1760)頃天草に来て、下浦村石場に移り住み石工となった。島民に石工技術を教え、石工業の発展に寄与し、天明3年(1783)に没した。 ここより200mほど離れた山中には花岡大明神があり、これは明治18年(1885)に五郎左衛門を神として祀ったもので、毎年祭礼も行われている。 平成24年12月 天草市教育委員会 |
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花岡大明神の碑 この碑は、五郎左衛門没100年後に、地元石場の人たちが、遺徳を讃え、石工業の安全を祈願して建立した。 碑には「花岡大明神 明治十八年酉中春礿日設立」と刻まれている。 |
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