長岡興就は御領組大庄屋であった。 その長岡家の祖は、長岡興秋である。 この興秋こそ、熊本細川藩初代藩主、細川忠利の兄である。 松田唯雄著『天草近代年譜』は、この興秋が天草に住むことになったいきさつを次のように記す。 |
||
元和元年 六、六 | 細川忠興の次子長岡與五郎興秋、先に脱走して豊臣秀頼に属す。落城には身を以って遁れ。京師(松井家所領地)稲荷山東林寺に潜む。徳川氏を憚る父君忠興の強要にて、この日同所に於いて神妙に自刃す-----とは名のみ。その実、説得役松井右近の計らいにて一命を完うし、暫く尾州春日郡小田井村に忍び、後天草に伴われ御領村に隠匿す。扈従の臣長野幾右衛門、渡邊九郎兵衛の両名、何れも同村に居つく。時に興秋年三十三、隣村佐伊津中村半太夫方に同居の某女(当時十八九歳)を入れて妾となす。すなわち同女、富岡番代関主水の娘という触れ込みなるも、実父は立家彦之進と云える寺沢藩中名だたる士、密かに大坂方に参じ、遂に帰らずなりしまま、唐津を立ち退き主水手頼りに来島、随伴の家従中村半太夫と共に佐伊津村へ仮寓中なりしなり。依って一子與吉を生み、長じて興季と名乗る、之れ天草長岡家の始祖にて、後挙げられ御領組大庄屋と為る。 |
|
興就大庄屋十代目の長岡興生であった。しかし彼は文政十三年、旅先の京都で亡くなった、享年37歳の若さでの死であった。そのため、嫡子の興就が若くして大庄屋役を引き継いだ。この興就が弘化四年の大百姓一揆に先立ち、百姓の難儀を救うために、江戸へ昇り、老中安部正弘に直訴をした義人である。 |
||
弘化二(1845)年、御領組大庄屋 長岡五郎左衛門興就は老中阿部伊勢守に籠訴(直訴)に及んだ。 命を懸けての越訴の意は困窮に喘ぐ百姓連の難儀を救わんがため。天候不順・病害虫の発生等による生産力の低下や貨幣経済の農村への浸透により金が必要(年貢も銀納)となった小前百姓は、そのため借財をするが返すめどが立たなくなっていた。 借財の相手は銀主。ただ一人肥え太る銀主に対して痩せる一方の百姓百姓を救う対策は、寛政年間に施行された「百姓相続方仕法」の復活である。 その復活を求めて長崎奉行所へ何度も掛け合うが埒があかず、ついに興就は江戸へ上り直訴を行う。 興就は囚われの身となるが、栖本古江村庄屋永田隆三郎を中心に百姓自ら立ち上がり、銀主の打ち毀しへと発展する。 義民と称えられた興就は明治まで生きる。 |
||
「天草近代年譜」には、彼を次のように紹介している。 十一代 長岡五郎左衛門興就 幼名 璵七郎。興生の嫡子なり、家督を継いで大庄屋たり、性剛毅にして任侠あり。弘化二巳年小前百姓の意を体して質地請返しのため出府し、老中駕籠訴の挙に出でしも、越訴の廉にて長崎奉行所へ護送される。これが口火となり、弘化打ち毀し異変勃発するや、吟味のため長崎より富岡の獄へ投ぜられしが、嘉永二酉年江戸勘定奉行よりの判決にて、乱心の故を以て決所仰せつけられ、親類預けとなり佐伊津村に蟄居す。明治二巳年九月一五日歿。興就院直宗英気居士。 |
長岡興就 関係碑
長岡興就像 天草市五和町御領 天草市役所五和支所 | |
御領組大庄屋 長岡五郎左衛門興就公 興就公は天保3年(1832)父、興生公の死去により十六歳で第十一代御領組大庄屋となりました。 そのころの天草は、ひでり、作物病虫害、風水害、はやり病、大火などに加えて、幕府が取り立てる重い年貢米のほかに、諸経費として法外なお金を割り付けるなど、自然災、人災が容赦なく島民を苦しめたのです。 永年に亘るこのようなくらしの惨状を憂えた興就公は、富岡代官所に出向いて島民の生活苦を訴え、救済方を再三に亘って願い出ましたが、代官所は聞き入れませんでした。 そこで興就公は意を決して江戸に上がり、弘化2年(1845)12月、江戸幕府老中筆頭阿部正弘公の登城途中に「天草の百姓が安心して農漁業を続けられる仕法(法律)を公布してほしいと、幕府が厳しく禁じた「直訴」を命がけで行いました。 その結果「天草百姓相続方仕法(あまくさひゃくしょうあいつづきかたしほう)」が公布され、島民は大いに救われました。 <管理人注> 当案内板には、天保三年(一八二二)と記してあるが、天保三年は1832年である。修正をお願いしたい |
|
|
|
御領神社二の鳥居 天草市五和町御領 御領神社 | |
天草市指定文化財 御領神社二の鳥居 指定年月 平成3年2月15日 所 有 者 御領神社 この鳥居は、十一代御領組大庄屋の長岡興就(おきなり)により奉納されたものである。 興就は農民救済のため、当時ご法度である越訴(おっそ)を行い、「百姓相続方仕法」の再発布を懇願した人物である。その後、仕法は発布されたが、興就は越訴の罪を問われ入牢、その後一時帰宅を許されるが、弘化四年(一八四七)の一揆の後、首謀者である古江村庄屋の永田隆三郎と共に捕えられ、四年後には大庄屋役を没収されている。 興就は明治二年に没し、墓地は芳證寺境内にある。この鳥居は越訴の七年前に建立されたもので、柱に「願成就 長岡五郎三郎源興就」とあり、興就の悲願の程が伺える。 平成21年3月 天草市教育委員会 〈管理人注〉 「願成就 ・・・」は誤りで、「願主」が正しい。 |
|
|
|
大庄屋長岡家墓地 五和町御領 芳證寺墓地 文化財 | |
大庄屋長岡家墓地 文化財 中央に長岡家の始祖細川与五郎興秋公(細川忠興公とガラシャ夫人の第2子)の墓碑があり、大庄屋、九代長岡五郎左衛門源興道が享和2年(1802)に再建したものである。向って右端には弘化2年(1845)農民の窮状に堪えかね百姓相続方仕法の復活を願い江戸幕府へ直訴をした義民、第十一代大庄屋、長岡興就公の墓碑がある。なお長岡家歴代の古墓地はこの地の東側に存在する墓碑群がそれである。 |
資料 長岡興就の像・興就祈願の鳥居 (pdf)
長岡興就の墓。長岡興秋主従の墓 (pdf)