江戸時代、井手組の大庄屋を勤めた長島家。この長島家大庄屋累代の墓が、五和町手野の東明寺墓地にある。累代の大庄屋だけでなく、妻や親族などの墓が何十基と建てられており、見事なものだ。
長島家の出はどうであったのか、よく分からないが、この墓地の説明文は、次のように記している。
井手組大庄屋長嶋家墓地群
五和町教育委員会
東明寺境内上段の墓地に、初代長嶋五左衛門 元和8年歿(1622)以下14名代までの墓碑が整然と並んでいる。 戦国の末、薩州長島より渡った豪族長嶋氏の末えいと言われる。
寛永18年(1641)鈴木重成代官により井手組大庄屋(城木場、荒河内、上野原、井手、下内野、二江)を命じられ民政に力を尽くした。享保9年(1724)9代長嶋治兵衛等の指揮により下内野村の往還普請と基盤整備の大工事が行われた。また代々の大庄屋は内野川の改修に力を注いできたと言われている。
この下内野村の往還普請と基盤整備については、「天草近代年譜」に次のように記している。
享保7年(1722) 12.26 田方永荒場検分のため、井手組下内野村に詰役出郷、終わって御領村へ廻り帰陣する。
享保9年(1724) 2.28 井手組下内野村田方永荒場原ノ口、柳原両所、起き返し普請請願済みとなる。
3.8 役所詰代官村井富太夫、下内野村へ出役。翌9日より原ノ口往還崩れ込み石垣普請に着手。
3.9 明け6ツ諸方よりの人夫出揃い、総数1,622人なり。代官村井富太夫、井手組大庄屋(長島)治兵衛、
同村庄屋(高橋)作左衛門等も現場に出張り、飯時、煙草休み共、貝を吹き立て合図する。
3.19 朝方原ノ口普請を終え、直ちに柳原の普請に懸かる。人夫1,508人なり。
3.27 柳原普請完了する。右越夫人足、井手組内5ヵ村はもとより、御領組8ヵ村、志岐組4ヵ村の助成なり。
また、この下内野村、石垣普請については、「五和町史」旧五和町発行に、詳しく載っている(p575)ので、興味のある方は参照されたし。
この町史によると、富岡役所への普請願いは、享保八(1723)九月に、下内野村年寄 宇右衛門、同村庄屋 作左衛門、大庄屋 治兵衛にて出されている。
更に、「近代年譜」には、累代の大庄屋について、次のように記している。
《 双矢放弦編 》
井手組大庄屋 長島家
初 代 五右衛門 元和8(1622)年5月27日歿
〈五左衛門 始祖〉
二 代 六右衛門 寛文2(1662)年6月16日歿
〈大庄屋初代〉
三 代 九兵衛 元禄9(1696)年10月16日歿
四 代 市兵衛 宝永7(1710)年3月10日歿
〝墓石には寛文九(1669)巳酉年三月十日と刻されている〟
五 代 甚左衛門 享保4(1719)年8月4日歿
六 代 市兵衛政重 享保20(1735)年閏3月4日歿
七 代 市兵衛政任 明和2(1765)年3月27日歿
八 代 徳兵衛政則 宝暦12(1762)年閏4月10日歿
九 代 治兵衛 享和3(1803)年8月20日歿
十 代 安 吉 没年不祥
十一代 順 次 幼名内蔵助、晩年市郎左衛門と改む、没年不祥
十二代 市左衛門 没年不祥
十三代 宇兵衛正信 明治11(1878)年8月20日歿
十四代 幾次郎 明治23(1890)年5月4日歿
十五代 政 明 明治35(1902)年2月29日歿
註 原文には十二支が記されているが略した。
また、西暦を追記した。
〈〉は、「年譜」本文
〝〟は、現地調査
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