天草の歴史人 上田宜珍 窯業 井手組大庄屋 長島家墓地 石本家
旧家
旧家 上田家 天草市天草町高浜
上田家は、高浜村庄屋を勤めた。 以下『近代年譜』等から、歴代上田家・歴代庄屋を紹介する。 |
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遠祖 弥津甚平惟之 | 清和天皇の皇子貞保親王より出て、29代の後裔。本姓は滋野氏。信州弥津城主 |
始祖 弥津正信 | 信州弥津城主弥津甚平惟之の22代孫。同国上田城主真田氏の一族として、真田昌幸に育てられた。 のち、真田幸村に従い大阪城を守る、幸村の命を受け、兵を募るため、家臣らと共に西国に下る。元和元年五月、大阪城落城。このため、処処漂泊して、元和三年、最終的に天草に渡海し、高浜村に隠れる。 家臣は炭を焼いて資とする。時に正信43歳。後姓を上田と改め、名を助右衛門と称し、宗沢と号する。 |
二代 勘右衛門定正 (1代) |
正信の子。万治元年、代官鈴木重辰により、高浜村庄屋を命じられる。再三これを固辞したが、後拝命。 |
三代 伝右衛門定政 (2代) |
定正の子。2代め庄屋。 |
四代 友右衛門遠栄 (3代) |
定正の三男。長兄、次兄とも早世のため、3代め庄屋拝命 |
五代 勘右衛門達賢 (4代) |
遠栄の子。肥後川尻にて客死する。 |
六代 伝五右衛門武弼 (5代) |
達賢の子。 高浜焼き生みの親。 |
七代 源太夫宜珍 (6代) |
宝暦五年十月二十五日武弼の次男として生まれる。安永七年24歳で庄屋見習い、寛政元年35歳で庄屋拝命。文化四年53歳の時、大庄屋格に列せられる。文政元年64歳で隠居。文政十二年九月二十五日歿。75歳。 ※ 詳しくは、上田宜珍を参照。 |
八代 養右衛門定温 (8代) |
六代武弼の末子。宜珍の弟。幼名友三郎。宜珍に男子が生まれなかったので、その嗣となる。享和二年今富村の庄屋となり、隠れキリシタン発覚事件に尽力する。 在職19年、文政三年、嫡子定行に役を譲る。文政六年庄屋信親に代り、庄屋となる。 |
九代 順一郎信親 (7代) |
宜珍の甥。母は武弼の末女。宜珍の嗣子定温が、今富村の庄屋となったため、養父の養父の譲りを受けて高浜村庄屋となる。 |
十代 源太夫定行 (9代) |
定温の子。父定温の後を継ぎ、今富村庄屋となる。後伯父宜珍の養子となり、 信親に代り、高浜村庄屋となる。 |
十一代 源太夫定珍 (10代) |
定行の嫡子。20歳で高浜村庄屋となる。 |
十二代 松彦 (11代) |
定行の二男。定珍に嗣がなかったため、高浜村庄屋となる。 |
<資料及び詳しいことを知りたい方は>
『天草近代年譜』松田唯雄著
『天草陶磁焼の歴史研究』鶴田文史著
『上田宜珍傳』角田政治著 昭和15年発行