尾越の板碑 天草市船之尾町
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| 天草市指定文化財 船之尾尾越の板碑 指定年月日 昭和三三年五月一日 指定種別 記念物(史跡) 管理者 船之尾区 この板碑は享禄四年(一五三一)に洞慶寺桑牧によって建てられたもので、砂岩製の板状石に仏像と銘文が刻まれています。中央には蓮台に乗り光背をもつ阿弥陀如来立像、左右には脇侍である勢至菩薩及び観音菩薩を梵字で表したものを線刻しています。阿弥陀三尊の下部には銘文が刻まれています。これによると、建碑の前年に天草氏と志岐氏による争いがあり、その戦没者の霊を慰めるために比丘(僧)百十余人を集めて法華妙典一千部を誦んで供養を行ったことが記されています。中世天草の様子を知ることができる貴重な金石資料でもあります。 令和六年三月 天草市教育委員会 |
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| この板碑は大きいもので、高さ1m20㎝、幅78㎝、厚さ12~5㎝もある。 そして板碑というように、石材を板状に加工してある。表面はほぼツルツルに加工してあり、機械のない時代にこれだけの加工をするのは大変で、かつ当時の技術の高さが分かる。 ただ、建立から約五百年が経過している事と、線刻が薄いため、判別は困難なのが残念。 その薄い刻字を、万五郎氏は得意の技術を駆使して、見事に再現されている。 |
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天草島の僧を集めての大供養碑文 密以爰釈桑牧 典蔵励願力無比 丘衆百十餘人令読 誦法華妙典一千部 以顕弥陀尊容伏希 仍此善功施恵貴 賎現存得安穏楽 後世入舜場中周導 群情同園種智焉 于時享禄四年辛卯九月吉日 願主比丘洞慶居住桑牧敬白 |
| 《読み下し分》(上中まんごろ さん) ひそかに(慮)おもんみるに、ここに以って釈桑牧 法華経典を開き願力の無きを励まし 比丘(男僧)百十余人に法華経の妙典一千部を読ましめ 以って弥陀尊容を顕わし、伏して願わくば この善功によって、貴賤には善功を施し 現存には安穏楽を得さしめ 後世を舜場に入らしめ、中周(一周忌)に(あたって) 群情を同園に導きて種智せん(とす) 時に享禄四年(一五三一)九月吉日 願い主 洞慶寺居住桑牧 《用語解説》 桑牧=洞慶寺の住職・この碑の建立者 丘衆=僧侶 法華妙典=法華経 現存=現世に在る人 安隠楽=平穏無事 舜=舜若(しゅんにゃ)空・この世は実体のないことを悟り、一切の煩悩(欲望)や執着(こだわり)を離れた無心の境地 場=くぎる意味 中周=一周忌 群青=衆生の思い 同園=舜・無心の境地 種智=種々解智力の略(?) 衆生の種々の欲楽、高い理解を明かにする仏の智力 比丘=男の僧侶・女性の僧侶は比丘尼という 現存=現世に在る人 洞慶=洞慶寺(日蓮宗か)・ 今となっては、洞慶寺がどこにあったのか分からない。 また、僧が百十余人とは、すごい数である。まんごろ氏は、僧の数でなく戦死者の数ではないかと推察する。 法華経を千部読むというのも驚きである。一体何時間かかったのか。 戦死者の数も分からないが、これだけ大規模に法事を催すという事は、かなりの兵士が亡くなったと思われるが、記録が残っていないため、如何ともしがたい。また、この法要では、天草氏のみの戦死者を悼んでのことか、それとも両軍の死者を合わせての事か? 分からないことが多いという事は、想像を逞しくするという利点もある。是非、この碑の訪問を。 |
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| 天草が誇る至宝・祇園橋。 その北側の丘にあるのが、祇園橋の名前の由来になった祇園社。その裏側にあるのが、この『尾越の板碑』と呼ばれる、隠れた天草史の至宝といっても過言でない板碑。この石板には、阿弥陀如来像と梵字で表された勢至菩薩と観音菩薩、さらに下部に建立の意味を表す碑文が書かれている。特に阿弥陀如来像は線刻で描かれ見事である。 残念ながら、彫りが浅いのと、年月の為、判別しがたいが、これは『天草唯一最古 貴重な碑文』と、この碑をもっと、多くの人に知って欲しいというのが、上中万五郎さん。 天草市の指定文化財となってはいるが、殆どの人は興味も示さないで、この存在を知る人は些少であろう。 これを憂う万五郎さんは、是非この文化財の貴重さを多くの人に知って欲しいと思って、このバンプを作成した。。 この碑は、今から約五百年前の享禄四年(一五三一)に造られたものという。 当時の天草は、いわゆる五人衆といわれる五家の国衆が支配していた時代。この五人衆、時に争い、時に和睦し、長く天草を支配していた。 天草下島は、志岐氏と天草氏がほぼ同勢力で、勢力争いをしていたようである。 この碑が造られた享禄時代(1528~1531)は短く、この後日本史の激動の時代が始まる。 1532年 畿内一円に一向一揆が起きる。 1543年 鉄砲伝来。 1539年 川中島の戦い。 1549年 キリスト教伝来。 1560年 桶狭間の戦い。 1573年 室町幕府滅ぶ。 いわばこの戦いは、天草五人衆の最後のあがきだったのかも知れない。 そして、時代は進み、豊臣秀吉の全国統一の波に飲み込まれ、天草五人衆も必至に生き残りを図ったが、時代の大波には逆らえず、あえなく沈没と相成る。 この狭い、天草でちょっとでも領地を広げようと、互いに躍起になった時代。 それは、後世の人から見ると、滑稽に見えるかもしれないが、当時の為政者にとっては生き残りを懸けた生存競争であったようだ。 天草下島では、現在の苓北町を拠点とする志岐氏と、河浦町を拠点とする天草氏が鼎立していた。当時天草五人衆は菊池氏に加担しており、永正二年(1505)『中次某状写』によると、本戸は志岐氏のものと裁定が下さていた。 享禄になると、天草尚種は父祖の地、本戸の奪回の戦いに挑んでいた。享禄四年には、大きな犠牲の上に本戸の奪回に成功し、町山口川に近い尾越に戦没者供養の板碑を建てている。本戸に堅固な城を築き一族を配して志岐氏への守りを固めた。 (改訂版 天草の歴史 p53) 享禄三年(1530)天草尚種が宮路・久玉氏を抑え、志岐氏と本砥で対戦する。(本砥川を挟んで戦う)(苓北町史 p1169) 享禄三年(1530)天草氏、志岐氏を破り本戸城を築く。 四年(1531)本戸の洞慶寺において、僧侶百十人を集め、戦没将兵慰霊のため、法華経千部を読誦し、船の尾尾越の板碑が作られる、 (本渡市史 p1301) 詳しいことは分からないが、要するに本戸を巡る志岐氏と天草氏の戦いで、戦死将兵の供養のために、この板碑が作られたという事である 註 このページは、上中満(まんごろ)さんのバンプを参考に作成しました。 |
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