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天草探見・自然を楽しむ編へ


轟公園と石橋 河浦町今田今村
              轟橋 芦刈橋










轟公園
 樹間に見えるのが轟橋




 河浦町今田の今村には二つの眼鏡石橋がある。轟橋と芦刈橋だ。いずれも大正3年に架けられた。
 轟橋(写真左)は上にコンクリートの新橋がかかっているので、上からは見にくいが、下から見ると実に美しい橋である。新橋のたもとに旧橋の欄干が残してある。

 当時の天草には各地に炭坑があった。ここ今田にも炭坑があり、掘り出した石炭を運ぶために架けられたようだ。石橋の建設にはかなりの費用がかかるものと思われる。どうしてこんな寂びれた(失礼)田舎に、立派な石橋があるのだろうと、不思議に思っていたが、炭坑のためといえば納得がいく。
 日本は海外進出に躍起になっていた。そのためにはエネルギーを必要不可欠とする。当時は石炭が、エネルギーの中心であり、というより石炭しかなく、しかも天草の石炭は無煙炭であり、かなりの経費がかかっても採算がとれたものと思われる。
 無煙炭は煙を出さない(といっても全然でなかったのではないと思う)から、艦船の燃料には最適であった。無煙炭の採掘は国策であったのかも知れない。 

 轟公園は、轟橋のたもとにあり、ここの地区の人が守り続けた公園である。けっして大きな公園ではないが、古木が繁り、清流が淵をつくり、歴史を感じさせるなかなか風情のある公園である。
 石橋のほかに鈴木重成を祀った鈴木塚碑や諸神の塚がある。また、展示屋が設けられており、鈴木重成の事跡や炭坑の様子などが掲げられている。夏は、轟淵の清流を見ながら休憩するにはもってこいの場所である。
 芦刈橋は轟橋の上流1kmぐらいのところにある。本渡市宮地岳町へ行く道の三叉路にかかっている。この橋も石橋の上にコンクリートで新橋が造られているため、さっと通っただけでは見落としてしまう。芦刈橋という標柱もないので、バス停の表示や予備知識がなれけば橋の名前もわからない。ぜひ、標柱ぐらいは建ててもらいたいものだ。



 展示あずま屋に、郷土史家鶴田文史さん撰文があったので紹介する。

轟公園 撰文 鶴田文史
 

 とどろ鳴る滝のあるこの地は、今村のほぼ中心に存在する自然と歴史の轟公園だ。
天草の乱後の再興に尽力された鈴木重成代官をおまつりした”鈴木塚”や、今村の山林を村民共同体の区有林として保証してくれた今井九右衛門代官碑などがあり、轟の滝の淵には雨乞いを神に祈願した弁天竜王鉾様がまつってあった。
 轟の鈴木塚の側にある元禄13年銘の手水鉢は、天草で一番古い手水鉢だ。
今村の庄屋さんは松本家、代々村民のために尽くされたその足跡があちこちにある。
今村の地域は明治・大正期に田中栄蔵氏の旭炭鉱が盛況だった所で、大正3年に架けられた芦刈橋と轟橋は、人の工による天草有数の石橋文化眼鏡橋である。
この轟公園は、鬱蒼とした自然の中に歴史と人工の遺跡があり、雨のときの滝は勇壮で自然と歴史と人工が、三位一体に凝縮している所なのだ。
 今村区
 轟公園保存会