天草歴史人索引へ    鈴木重成考 


鈴木重成

鈴木三公像 天草市南新町 
鈴木重成像  苓北町富岡 富岡城公園 
鈴木神社 天草市本町
鈴木重成像  苓北町富岡
鈴木重成公供養碑  苓北町富岡
鈴木重成代官の病気快癒祈願の石灯篭 天草市河浦町一町田 一町田八幡宮
 富岡供養碑切支丹供養碑 天草郡苓北町富岡
鈴木塚 天草市河浦町今田
鈴木社 天草市天草町高浜
阿弥陀如来と二十五菩薩像  苓北町志岐 国照寺(円通寺本尊仏)
鈴木重成関係年表
 


 鈴木重成は、三河の国に生まれた。
 代々、徳川に仕えている。
 天草島原の乱には鉄砲奉行として参戦し活躍した。
 彼は武勇の人であったが、文治の方に優れた能力を発揮した。
 亡所と化した天草の代官に抜擢されたのを見ても、彼が並々ならぬ能力を持っていたことの証左であろう。

 さて、代官として赴任した重成は、行政の仕組みを整え、社寺を建てるなど、民心と暮らしの安定に努めた。
 彼は没後神として奉られるわけだが、そのいわれは、石高半減を幕府に訴え自刃したためといわれている。
 しかし、自刃した証拠はなく、慰霊塚などの文面から病死が正しいと思われる。
 それでは、病死したから神として奉られないのかというと、そんなことはない。

 彼は天草を救った代官であり、後世まで人々が神としてまで崇拝する、仁愛に満ちた行政をしたことは事実だからだ。
 それよりも妙に史実を曲げ、神話を作り上げることが気になる。
  


   鈴木三公像 天草市南新町 天草信用金庫構内

 鈴木三公(鈴木重成、鈴木正三、鈴木重辰)の像が天草島民の浄財により天草信用金庫構内に建立された。
 像の建設に当たって、公費を投入したり、公的場所に建設するのはいかがなものかとクレームが付き、像建設そのものが危ぶまれたが、写真のような見事な像が完成したのはよかった。
 ただ、像建設に当たり、いくばくかの寄付をしたものに言わせて貰えば、経過報告もなければ、像建設の知らせもなかった。民衆を大切にした鈴木公の精神とはちょっとかけ離れたところで造られた感もした。
 それに、鈴木重成とは誰?という島民も若い世代には多いだろう。寄付者の銘板もいいが、鈴木三公の業績・建設の趣旨などの案内板も作ってほしかった。と思う。
 
 
 
  鈴木重成 像 苓北町富岡  富岡城

                         富岡城二の丸跡にある鈴木重成像。左が重成。右は兄の正三。
 

 
 鈴木神社  鈴木神社   天草市本町

鈴木神社由緒   天草市本町
 
 鈴木神社は切支丹の乱後の天草を復興し済世救民のために身命を賭し給うた鈴木三郎九郎重成公 鈴木九大夫重三公 鈴木伊兵衛重辰公を御祭神とする神社であり世に「すずきさま」の名で親しまれ三神の偉徳は「鈴木精神」と仰がれる。
 寛永14年 唐津藩主寺沢志摩守支配下の天草では万余の民がその苛政に抗して蜂起し島原の民と呼応して遂には原城の露と消えた。
 大乱の後天領となった天草の初代代官鈴木重成公は寛永18年より承応2年に至る12年間三河武士の果断と卓越した識見 深い慈愛を傾注して亡所と化した天草の再建に尽瘁せられたのであった。

 即ち 一揆犠牲者の慰霊 殖産 移民誘致 行政組織の再編 海浜防備 農漁民の地位保全 衛生の普及 社寺の創建と復興 雑税の減免等の諸施策がそれである。
かくて我らが祖先の生活と心は徐々に向上し安定に向かった。
 その仁政の陰に実兄鈴木重三(正三)公の深い思想と助言建策が大いに与って力あったことも我々の銘記すべきところである。
 しかし天草の困窮の源はこの地の生産力の実態を無視した石高の査定(四万二千石)にあった。代官はみずから再検地して 幕府に対し天草の石高半減を建議 再三の請願も容れられぬと看るや 領民塗炭の苦を除かんと赤心を披瀝し 承応2年10月14日 江戸の自邸に割腹して果てられたのである。
 二代代官 鈴木重辰公 またよく先代の仁政を継承し 更にその熱願達成のため挺身せられたため 重成公七年祭万治2年 幕府は遂に天草の石高を二万一千石に半減する旨指令を発した。
 島民ひとしく先代の遺徳をしのび 請うて遺髪をこの地(御本殿後方)に埋葬の感謝報恩 慰霊顕彰の篤い念を発して鈴木社を建立した。当社はその後島内三十余に及んだ鈴木社の本社となり今日に至る。
その間文政6年「鈴木明神」号下附 文化8年鈴木明神伝碑建立。安永7年社殿新築。天明8年重三重辰二神を合祀 奉納相撲大いに賑わう 明治17年社殿改築 昭和17年復興奉賛運動昂揚するも大戦により中断 昭和34年石高半減三百年記念大祭 昭和58年重成公没後三百三十年大祭並びに記念事業として拝殿の改築その他を奉仕した。
鈴木三神の広大な御神徳と三神を敬仰する天草島内外の信篤き人々の心とが相和し相応して御神威ますます高まり思徳はいよいよ深い。
 身を整え心を清めてお参りましょう。御神徳を讃え感謝の真心でお祈りしましょう。
神を敬い世のため人のため奉仕する心の輪を家庭と地域社会に広めましょう。
 鈴木神社社務所
     
 
昭和40年初期の鈴木神社
 
   

天草市指定文化財 鈴木明神伝碑    

                 指定年月日 昭和46年4月26日
        管理者          鈴木神社 田口孝雄

 天草・島原の乱後天草は天領となり、初代代官として着任した鈴木重成公は荒廃した天草の復興に全力をあげる。特に領民の苦しみを除くため石高(四万二千石)の是正を再三幕府に具申、遂に上書して自刃し幕府もその赤誠にうたれて石高半減を見るに至った。この碑は文化8年(1811)建立、撰文は魚沼国器、書は岡田芝山の手になり、鈴木重成、正三、重辰公の遺徳を長く後世に伝えている。

 天草市教育委員会

鈴木さま

 天草島原の乱後、天草は幕府の直轄地「天領」となる。初代代官には三河武士の鈴木重成が任ぜられ、兄正三と共に荒れ果てた天草の復興に数多くの治績を挙げた。当時天草の石高は四万二千石で、重成はその重税にあえぐ島民の苦しみを救うため一死を以ってその石高半減を訴えた。(時承応2年(1653)10月15日自刃年 66歳)二代代官鈴木重辰は養父の悲願実現に熱誠をつくし、万治2年(1659)天草の石高は遂に二万一千石に半減された。
   島民はその遺徳と善政の恩恵を永久に忘れまいと、島内各地に鈴木神社を建てて鈴木さまと尊び崇め祭った。ここ鈴木神社は正三、重成、重辰を祀るこれらの宗社である。境内には重成の遺髪塚や三公の事蹟を詳細に記した本渡市指定文化財鈴木明神伝碑がある。
              平成8年3月 天草市教育委員会

 
遺髪塚 鈴木明神伝碑


 
   鈴木重成像 苓北町富岡 富岡城跡

天草代官 鈴木重成公

 天草・島原の乱後、山崎甲斐守が富岡城修築を終えた寛永18年(1641)天草は天領となり、初代代官として赴任し、全島の統治に当たった公は、先ず郡内の行政組織を整備した。また実兄正三和尚の授けを得て、寺社を復興し、島民の思想善導を図ると共に、移民を求めて荒地を開拓し、殖産興業を奨励した。特に当時天草の石高四万二千石が過大であり、貢納の過重が天草島原の乱の一因であったことを痛感した公は、その半減を再三幕府に上申したが容認されなかった。承応2年(1653)春更に上府し八方陳情を続け、その成就を願いながら同年10月15日江戸飯田橋賜邸において66歳の生涯を閉じられた。(一説には自刃したとも言われている)公の悲願は幕府に認められ、養子の重辰代官の万冶2年(1659)石高ニ万千石に半減され、公の素志は達成された。その後島民はあげて公の遺徳を偲んで各地に鈴木神社を奉納している。
 富岡郊外にある「富岡吉利支丹供養碑」(国指定史跡)は公が建立したものである。また瑞林寺境内には公の家老等が建立した「鈴木代官供養碑」(町指定文化財)がある。
 


 
鈴木重成公供養碑 苓北町富岡 瑞林寺墓地


 鈴木三郎九郎重成は、島原の乱後天草が天領となった時の初代代官で、乱後の天草復興に努力した。天草の民を救うには過重な年貢を軽減するより外にないと決心して、このことを幕府に建言したといわれているが、承応2(1653)1015日江戸の賜邸で歿した。(一部には、幕府への建言の責を負って自刃したともいわれている)
 この碑は、家臣等が代官の徳と偉業をたたえ、その功を顕彰するため翌3年建立したものである。

 昭和46824
 町指定文化財


≪供養碑碑文≫

異中殿不白英峰居士

竺土大仙心密惟

承応二癸巳十月十五日


当郡兇徒一揆之後村落家荒人亡矣是為郡職鈴木重成公蒙
大樹鈞命下着矣其人有仁有義可謂儒門君子武門良匠乎公
在国十余霜不拌陰再興社寺撫育村民仁政甚大也不成期年
郡裏之豊穣勝于往古矣然而有年為参覲嚮武府至私宅不意
就于病状日久矣医王拱手失術天哉命哉遂逝去了即其家老
之信士等於于此地建石塔一基以伸供養矣其塔廟者諸仏安
住之処功徳最第一也乃至童子戯聚沙為仏塔知是諸人等皆
己成仏道云々况於実信造立乎其徳深也重也伏願憑茲善利
居士証得菩提妙果安着涅槃彼岸便説禅喝銘之曰

 一塔忽魏然  湘南潭北辺
 法身真実相  歴刧已長堅

于時承応三申午春時正月

       施主各合爪

                                天草鈴木代官の歴史検証より
 

 

鈴木重成公病即消滅祈願の石灯篭   
          天草市河浦町一町田 一町田八幡宮


一町田八幡宮には、二基の石灯篭が左右にある。
これは、従来、鈴木重成が寄進した石灯篭と言われていた。
しかし、刻字を詳細に見てみると、鈴木重成の病気快癒を祈願した、組中の建立と分かる。


 <東灯篭>
  □□□壱町田大□□建立
   (下に20名の名前)

 <西灯篭>
  奉寄進    □□□□□
  八幡宮□□□□□□祈願者    当奉職
  鈴木重成公病即消滅福寿増長武運長久
  子孫繁昌祈所 当組中七□□□寄進祝
   承応二癸巳天八月吉日


       刻字については鶴田文史「天草の史跡文化遺産」
                〃  「鈴木代官の歴史検証」より転記
       ただし、調査は鶴田氏により40年以上前になされた。
       当時も文字は風化磨滅していたが、現在は更に風化が進み、判読はほとんど不可能。
       ただ、「病即」の字ははっきり読み取れる(左下)。

         
     
 
 
 

標木には、「代官鈴木重成公奉納の石灯篭」と標記されているが、実際は「鈴木重成公の病気平癒を祈る石灯篭」である
 

   鈴木塚碑  天草市河浦町今田 轟公園

 鈴木重成を奉った鈴木神社は本渡市本町の神社を主殿として天草各地にあるが、ここ河浦町今田の轟公園には鈴木塚がある。鈴木神社は、重成をはじめ重成の養子で第2代代官重辰、兄正三を鈴木三神として奉られている。この3人の説明が、ここにあるので紹介する。

鈴木さ

鈴木重成(すずきしげなり)

 1587〜1653 わが身をなげうって島民を救った天草初代の代官。すぐれた行政官として知られ、各地で代官職や奉行職を歴任。島原の乱に従軍後、島の復興・一揆の再発防止などの重い課題を背負って天草初代の代官となる。島内を一町十組八十六ヶ村とし、組に大庄屋、村に庄屋・年寄・百姓代を置き、上意の徹底と民意の汲み上げにつとめる。
 正三思想を治政上に具現化し、さまざまな施策をとおして窮乏の島を復興にみちびき、ついには幕府に総石高(四万ニ千石)の石高半減を上訴して切腹。救われた天草島民は重成を神とまつって感謝・報恩の念をあつくした。

鈴木重辰(すずきしげとき)
 1607〜1670 石高半減の悲願を実現した天草第ニ代代官。実は正三の長男。父の出家にともない重成の養子となった。重成自刃後の後任を誰にするかは幕府にとってむずかしい問題であったが、やはり重成の血縁者でなければ天草島民の気持ちが収まらないという事情もあった。先代の仁政を継承し、悲願達成に挺身。また神仏をともに尊崇し社寺を保護した。1959年、石高半減の実現によって天草は救われ、同時に「鈴木の時代」が完成した。二人の偉大な父をさらに偉大にしたともいえる。着任前は京都御所造営役。1664年畿内に転任。

鈴木正三(すずきしょうさん)
 1579〜1655 初代代官・鈴木重成との絶妙の兄弟コンビによって天草を救った。江戸時代前期の偉大な思想家・仏教者・文学者。もともとは三河武士であり、幕臣であったが、42歳の時に突然出家。主として曹洞宗に立脚しながら宗派の枠にこだわらない独特の仏教世界をひらく。栄達を願わずつねに民衆とともに在った。現実の人間生活に仏法をいかに生かすか、働くとはどんな意味を持つ行為なのか・・・などを探った思索の跡は、近世日本の宗教改革的精神とも日本資本主義の源流ともいわれ、今や各界から幅広い関心が寄せられ、ある意味で世界的な存在となっている。
   天草町高浜の 鈴木社

《参考資料》

鈴木重成関係略年表     
重成関係 年齢 西暦 和暦 天草・その他
三河国加茂郡に重次の三男として生まれる   1588 天正 16  
家康関東移封に伴い一家で下総に移住 2 1590 天正 18 秀吉天下統一・徳川家康関東移封
  4 1592 文禄 1 文禄の役
  9 1597 慶長 2 慶長の役
  10 1598 慶長 3 豊臣秀吉死去
  12 1600 慶長 5 関ケ原合戦
  15 1603 慶長 8 江戸幕府成立
  17 1605 慶長 10 秀忠二代将軍
重辰(長兄重三の長男)生まれる 19 1607 慶長 12  
四兄弟とも冬の陣に従軍  26 1614 慶長 19 大阪冬の陣
駿府の家康に仕える  27 1615 元和 1 大阪夏の陣
家康死去に伴い、秀忠に仕えるため、江戸へ移住  28 1616 元和 2 家康死去
秀忠の上洛に供奉、その途次三河国代官非道事件の吟味を務める 31 1619 元和 5
長兄重三(正三)が仏門に入ったため家督を継ぐ(700石) 32 1620 元和 6  
  35 1623 元和 9 家光三代将軍
信濃国伐木目付 37 1625 寛永 2
江戸城御納戸頭 38 1626 寛永 3
御納戸頭から上方代官となる 40 1628 寛永 5  
年貢逃れの庄屋隠し田事件で、連座の男女ことごとく成敗の命に、婦女子の赦免を懇願し命を救う。
処刑された男囚の慰霊に阿弥陀如来と二十五菩薩の像を作る。
(寛永11年説有)
43 1631 寛永 8
摂津、河地の堤奉行を兼任
天草島原の乱に鉄砲奉行として重辰と共に出陣
49 1637 寛永 14 天草・島原の乱起こる
  50 1638 寛永 15 乱鎮圧。天草を寺沢堅高から没収し山崎家冶所領とする
重成、検分のために天草に入る
北有馬町に願心寺、口之津に玉峰寺を創建
51 1639 寛永 16  
重成、復興策を幕府に進言 52 1640 寛永 17 幕府、天草を幕府直轄地(天領)とする
重成、天草初代代官となる(9月) 53 1641 寛永 18 鎖国令発令
正三(重三)重成に招かれ天草に3年間滞在 54 1642 寛永 19  
原城外にキリシタン供養碑建立 61 1648 慶安 1
  63 1651 慶安 4 家光死去・家綱4代将軍
  64 1652 承応 1  
重成死去(10月15日) 65 1653 承応 2  
東向寺住職、重成の遺髪を本村の丘に埋め供養   1654 承応 3  
重辰、二代目代官となる・正三死去   1655 明暦 1  
    1659 万治 2 天草の石高半減が実現
重辰、京都代官となり天草を去る   1663 寛文 3  
    1664 寛文 4  
    1665 寛文 5  
重辰、京都で死去   1670 寛文 10  
           

 鈴木重成関係資料
 「切腹」 黒瀬f次郎 致知出版社
 「天草の名代官 鈴木重成・重辰とその一族」 鈴木喬 編著 熊本地歴研究会
 「雲さわぐ 天草の代官 鈴木重成」藤井素介 講談社 
 「天草を救った代官 鈴木重成公小伝」 田口孝雄 鈴木神社社務所
 「天草 鈴木代官の歴史検証」=切腹と石半減その真実= 鶴田文史編著 天草民報社
 「天草代官鈴木重成鈴木重辰関係史料集」 田口孝雄・鶴田倉造など 鈴木神社社務所
 「天草の史跡文化遺産」鶴田文史編著 天草文化出版社
 「天草島原一揆後を治めた代官 鈴木重成」 田口孝雄 弦書房
 など