鈴木重成関係史跡  鈴木重成考 鈴木重成PDF 天草島原一揆 キリシタン関係索引


国指定重要文化財

富岡吉利支丹供養碑(首塚)  天草郡苓北町富岡

 
 この供養碑は、首塚とも呼ばれ、天草島原一揆で殺戮された人びとの供養碑である。

 この供養碑は、案内板にもあるように、首級を3分割し、この富岡の他にも、原城跡と長崎の供養塚に埋められたという。
 供養塔建立は乱後10年後であったが、首は乱後速やかに当該地に埋められていたものと思われる。


 
 
《現地案内板》

 寛永十四年(一六三七年)に起こった天草・島原の乱で討ち死にしたキリシタン一揆軍の首級一万余りを三分して埋めた一つがこの首塚である。この地に正保四年(一六四七年)鈴木重成代官が慰霊のために供養碑を建立したもので、碑文は山口瑠璃光寺住職中華珪法の撰である。

 《碑文》現地説明板の読み下し文

(上段中央)
○ 若し法(経)を聞く者有らば一として成仏せざるは無し 竊に惟んみるに

(上段)
 夫れ原ぬるに鬼理志丹の根源は、専ら外道の法を行いて、偏に国を奪わんと欲するの志二無き也。

明土(現中国の古い時代)に於ても亦斯の徒を禁ずること倭朝(我が国)に異ならず。昔年東照神君(徳川家康)是を制すること厳重也。然りと雖も彼の徒党、外直くし而曲性内干存す。仏法を貴ばす、王法を重んぜず、終に逆心を顕して、下の如く云う。是により政(征)夷の欽命、九州諸将に下る。斯の時彼の兇徒等残らず亡滅し了る。即ち天下の執権、其の数万頸を聚めて三分なし、長崎、高来、当郡三所にこれを埋却矣。是より扶桑(日本)国中、太平を歌い舜(中国古代の国)日に当り堯(中国の古代)風を扇ぐ。祝々祷々。

(下段)
 堪忍世界、何閻浮提日域(何閻浮提の中の日本)肥之後州(肥後の国)天草郡に益田四郎という弱冠者あり。鬼理支丹宗旨を立て、外道の法を以て国中国外の男女に示し而して党を為す。寛永十四白(一六三七)丁丑(ひのとうし)中冬(十一月)に当り、其の党仏閣神社を破却し、村落民家を焼き払い、肥前高来郡に推渡り原城に楯籠る。其の勢三万七千余人、忽ち国家を覆さんと欲す。是に繇り列国諸将彼の戦場に馳せ向い、夜に討ち日に闘い、海陸合戦休む時無し、終に明年暮春に至り城郭を打破し、彼の兇徒数千万を打捕す也。残党全からず悉く滅亡し畢る。即ち、当郡当村の於ても亦三千三百三十三頸を聚め、一壙に埋却矣。然し而星霜十余歳を歴て今に至る。時の郡職、熊野権現の第一臣能美大臣重高数代の嫡孫鈴木重成公、篤く三寶を敬い全く仁義を兼ぬ、加之武に達し、文に通矣。公、彼の塚壙を見、数千之魂霊の悪趣に沈淪し苦患するを愍れみ、塚上に碑石を建て、以て供養を伸ぶ。伏して願わくば斯の善根に憑り、諸霊速やかに仏土に生じ、無上正等覚心乃至平等利益を證する者也。野偈の一章を回打して結末の句爯云う。
 仏性賢愚平等法 何ぞ更に生死の罪業有らんや
本来無物空 亦空 流水潺湲 山及業
時 正保四白(一六四七)丁亥(ひのとい) 
七月廿五日
釈氏 中華叟これを記す

※○は俗にウハキュウと言われているが、意味は不明。
 「烏八臼について」とタイトルで、故岡部禅龍氏が「潮騒」第7号 天草文化協会刊で解説されている。
 ※何閻浮提=仏教用語で古代インドの世界観で人間が住む大陸。南にあることから南が付く。





 原城址の供養碑
 
原城跡の供養碑

現地案内板には
「島原の乱 原城の供養碑
 島原の乱10年後(1648)荒廃した原城付近を見た代官鈴木三郎九郎重成は嘆き哀しみ窮状に同情して首塚と思われる地に供養碑を建て乱当時の死者の霊を慰めるたと共にこの地の清浄息災五穀豊穣を祈願した 碑文は天草東向寺住職中華叟珪文の撰文である
  南有馬町文化財保護審議会」

と記されている。

 
 尚、長崎の供養塔は現存しない。
 なんでも、長崎の知人によると、供養塔の近くが住宅地となり、住民から供養塔撤去要請があり、そのため撤去されたという。