自由民権家 宇良田玄彰 顕彰碑 天草市牛深町真浦
宇良田玄彰 とは | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
肖像画(又間美代子画) |
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◇改進的平民民権主義者◇ 宇良田玄彰は、明治22年の活動と思想状況及び彼自身の著述をもとに、天草公同会すなわち天草改進党の指導者としてみることができる。 これまで近代天草の政治家としては、紫溟会すなわち国権党の小崎義明と自治会即ち熊本系改進党の中西新作、そして小崎の後継者大谷高寛が主役であった。これら三人に比して国会の議席を踏んでいない宇良田玄彰の名は全く影が薄かった。 しかし玄彰自身の諸記録類から全国的に最も早期からの民権家であったこと。さらにその後も、当時地方民権思想家としてレベルが非常に高い存在であったことが理解される。 彼の民権思想は、士族民権主義ではなく平民民権主義で、また革命的民権主義ではなく改進的民権主義であった。 彼は明治10年の西南戦争時には、西郷隆盛をはじめ木戸孝允・岩倉具視・三条実美・板垣退助等へ反戦の建白書を提出した。その翌年には東京で『憂国新聞』の編集発行を実施し、その後も勝海舟や後藤象二郎へ建白書を提出している。 しかもその文章は卓越したものである。これを裏づけるのが、『熊本新聞』(明治23年9月17日付)に、「郡中の頭株」として各界の代表者を一人づつ挙げている中で、「文章家は宇良田玄彰」と記していることからもわかる。たしかに玄彰は思想家であると同時に文章力が抜群であったことを玄彰の著作が物語ってくれる。 結論として、宇良田玄彰という人物は、天草人で前代後代において、もっともスケールの大きいすぐれた思想家であり文章家であったといっても過言ではなかろうと高く評価することができよう。 |
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宇良田玄彰と本渡集会 ◇明治二十二年民定憲法要求◇ (「熊本新聞」明治二十二年九月十九日付) 本日十四日天草公同会大懇親会を天草郡町山口村劇場に於て開けり。 此日有志者の東西より南北より山を越へ海を渡り来会したるもの無慮五千余人、各々の道すがら旗幟を翻し聯隊を列ね大声歓呼して会場に詰掛押寄たるは、実に雄壮なる有様なりし。 頓て予定の刻限午後一時を報するや、五千有余の来会者は悉く一堂の中に集まりしが、流石に広き彼の劇場も固より立錐の地なくて、少し後れて至たるものは止なく場外を囲繞せるに、その場の内外人跡の稍静穏に至るや、会主佐藤氏開会の主意を述へ、次に宇良田氏の祝文朗読あり、尋て小松、西条、原田、山下、福原の諸氏立て懸河の弁を揮て満腔の精神を吐露し、長崎同好会より特派せし西道仙、清水三剣氏も亦起て社会結合力の必要性を演せり。 其間会場は甚静粛にして始終拍手喝采の中に壇を上下したるが如きは、蓋し改進主義の天草に於ける勢力の一班を察するに足れり。 以上諸氏の席上演説を了るや、予て有志者より寄贈せし銘酒拾余樽を傾けて懇親を結ひ、或は胸襟を披き感興極て各退散したるは午後五時頃なりき。 亦午後四時半頃よりは、兼て用意し置きたる烟火を打揚け、十時頃までに五六拾本を続発し、黄昏の刻に至れは公同会本部を始め、長崎県同好会の旅宿及ひ各村より来会者の旅宿所拾余戸の屋上に紅灯を連点したりけれは、晃々たる灯光は閃々たる烟火の光と相決して満地の市街を照し、爆然たる烟筒の響は市民喝采の声と相応し、実に賑々敷事なりし。 蓋し如斯盛会は天草ありてより以来未曾有の事なり。 |
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国立国会図書館蔵(デジタルコレクション) |
宇良田玄彰の著作目録 「明治十年 西南事件に付長崎大阪西京東京紀行」 「憂国議事新聞」真権社 明治十一年四月刊 「西南件兵勢論」真権社 明治十一年七月刊 「明治十六年・明治二十年長崎移転件略記」 「明治十六年鹿児島行日記」 「明治二十年略春秋」(この二十二年の記録は牛深と本渡に於ける活動を詳記録) 建白書を纏めた「西南件兵勢論」ノ 送付相手 副島種臣 板垣退助 木戸孝允 岩倉具視 西郷隆盛 三條實美 |
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以上 「天草の史学・文学者 ガイド・リーフレット」 未刊 鶴田文史編より (一部編集) 活動履歴には南船北馬も参照 |
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私論 ◇ 政治活動及び娘〝唯〟の学費はどうして捻出したかの疑問 ◇ 牛深というより、「天草」が生んだ偉人として、『宇良田玄彰』とその娘で日本初の女性ドクターの『宇良田唯』をあげるのに異存を唱える人は少ないと思える。 ただし、この両人が、天草いや当事者の出身地牛深で、どれだけ現在評価されているか、疑問である。いや、この二人を詳しく知っている人が少ないのではないだろうか。 この両人は、玄彰が父であり、唯が娘であるということだ。 近代史で、父と娘が、表史に出る事は稀有な事だろう。 この父娘、幕末から明治~昭和初期に於いて、日本歴史上稀有な存在を示した人であった。 父玄彰は、牛深村の大銀主萬屋の次男(長男が玄彰生前に亡くなっていたので、事実上長男として育つ)として生まれた。 時は幕末、如何に大銀主といえども、時代が移ろえばいかに時の勢いがあった勢者でも、その変化を受け入れなければならない。さすがの牛深で豪勢を誇った浦田家も、その荒波をもろに受けたことは、容易に想像できる。 とはいえ、莫大な資産を所持していた浦田家は、玄彰の政治活動に費やす費用、玄彰の娘唯が、日本初の女医になる学費、更にドイツへ留学する費用等を、父玄彰が持ったことは事実であろうし、かつその資金を出すほどの財力があったことを、検証しなければならないだろう。 評伝は、唯が、学問が好きで、しかも医学に目覚め、医者になることを目指し、女性の社会進出がほぼというより、絶対的にNOであった時代、天草牛深の寒村で生まれた唯が、日本初の女性ドクター、しかもドイツへ留学してのドクター資格を得るとは、明治期の女性史にも堂々と登場するほどの偉業である。 ドクターの資格を得る事、それは今日でも同じことだが、かなりお金がかかるということである。勿論、凡人ではいくらお金があっても、ドクターにはなり得ない。頭脳的才能があり、かつ努力研鑽する意思を必要とし、更にお金がいることが、ドクターになる3大条件である。 さらに、唯の医学者への研修費用、特にドイツ留学への費用はどうして、工面したのだろうかということ。 浦田家は、確かに天草六大銀主といわれるほど、莫大な資産を有していた事は理解できる。ただし幕末になると、その財力にも陰りがあったと思える。 その資金をどうして作ったのかという一つのエピソードが、「本渡市史」記されている。 詳しくは、本渡市史を参照していただくとして、簡単に述べると。 江戸時代、中期になると、天草各地で干拓が盛んに行われるようになった。 その干拓を実施したのは、官(幕府)ではなく、民間の事業であった。民間といっても、一般の百姓ではなく、富豪の百姓即ち銀主や、銀主まがいの財力を誇る庄屋達であった。 その内でも、天草で規模が大きいのが、楠浦町の前潟新田である。 この新田は、湯船原村(現天草市栖本町)の庄屋猪原恒左衛門が干拓をした。ところが、大雨による干拓地の決壊等で資金繰りに困った猪原庄屋が、牛深村銀主の浦田助七に売却した。 額にして約230両である。 だが、牛深村と楠浦村は遠い。管理がうまくいかなかったことや、大雨により毎年のように干拓地が被害を受けた。さらにさしもの大銀主の万屋も、次第に手元不如意になり、家勢が衰えだしてきていた。 さらに追い打ちをかけたのが助七副明の死去である。跡を継いだのが仙七、13歳(本渡市史では19歳となっている)であった。 仙七は、遂に前潟新田を売却することにした。売却先は前潟新田の地の楠浦村庄屋宗像堅固である。売却額は、800両である。 その後、宗像堅固は毎年のように水害に会っていた新田を、川の流れを変える釜の迫堀切大事業を完工し、美田に作り替えたのは、よく知られていることである。 ただ、この売却に際し、宗像堅固に抜かりがあった。逆に言えば仙七側が、一枚悧巧であったという事である。 その抜かりとは、堅固が検地帳を受け取っていなかったという事だ。つまり検地帳は写しであった。 現在で言えば、登記が仮登記のままで、登記簿の所有者は仙七のままであったという事だろうか。 弘化3(1846)年、天草郡百姓相続方仕法が施行された。この仕法は期限5ヵ年とされたが、運用面で幕末まで生き続け、明治維新の慶応4年、富岡陣屋占拠中の薩摩陣営も、この仕法を有効と裁許した。 そこに目を付けたのが、仙七である。この時には冠一郎と改名していた。 早速冠一郎は、前潟新田の請地願いを提出した。驚いたのは宗像堅固である。新田は売却したもので、質地ではないとの堅固の主張は、裁判の結果、冠一郎の勝利となった。冠一郎勝利の因となったのは、冠一郎が検地帳の正本を所有していた事であった。 ただ、請地不許可となり、やれやれというところであったが、この検地帳代は高くつき、追い銭1,000円を支払う羽目になった。 いやいや、冠一郎頭のいいことで・・。 この冠一郎が、宇良田玄彰その人である。 この1,000円が、後に民権運動の資金になったり、娘唯の医学者への学資の一部になったことは容易に想像できる。 勿論、衰えだしたとはいえ、天草を代表する銀主。土地を中心とした財産も大分残っていた事だろう。 ◇ 改姓に対する疑問 ◇ 銀主浦田家の跡取りとして生まれた玄彰が、江戸時代から明治になるという時期に、浦田家を継いだ当主が、姓を〝浦田〟から、〝宇良田〟へ変えたのは、どのような理由があるのだろうか。 名前を変えるのは、当時一般的であった。玄彰も始めの名は〝仙七〟であったようだが、その内〝冠一郎〟と改名している。(本渡市史) その浦田冠一郎が、何時、どういう理由で、〝宇良田玄彰に〟改名したのか。 恐らく明治維新に際して行われた、国民すべてに苗字の使用を許可-義務化のに際して、浦田から宇良田へ変更したものと思われるが、それでも読み方は同じで漢字が違う改姓の理由はなぜだろうか。 これは推測だが、民権思想に目覚めた玄彰が、先祖が銀主という事で人々を搾取していた〝浦田〟という姓と決別の意味があったのかもしれない。 明治維新の後、明治新政府により従来の身分制度の再編が図られ、明治3年9月19日(1870年10月13日)に「平民苗字許可令」(明治3年太政官布告第608号)が定められた。この布告では初めて「平民」の語を用いて、華族及び士族(この両者は公家・武士の家柄がほとんどである)に属さない平民に「苗字」の使用を許可した。しかし、当時の国民(平民)には、あえて苗字を使用しない者も多かった。そのため、1875年(明治8年)に改めて名字の使用を義務づける「苗字必称義務令」を出した。本令では、苗字を称える(唱える)ことを義務づけ、「祖先以來苗字不分明ノ向」は新たに苗字を設けることとした。 ウィキペディア |
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参考資料 「天草海外発展史 下 南船北馬」 北野典夫著 本渡市史 国立国会図書館 デジタルコレクション |