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里の神

               
十五社宮 天草市亀場町亀川
延命地蔵 天草市佐伊津町
矢筈岳観音 天草市本町平床
塞埜神神社 苓北町上津深江
百貫様 天草市本町平床
麟泉宮 天草市新和町大多尾
岩谷観音 天草市五和町御領
精根さま 天草市有明町須子



十五社宮  
天草市亀場町亀川


 祭神は神武天皇の御子建磐立命を中心に その后 ご両親 その他近親の神々十二柱と 天照大神 応神天皇 天児屋根命の三柱の計十五柱をまつる。
  創立は明治7年9月8日 
  例祭は10月7日

 亀川の清き流れのほとり 十万山を正面に望むところに石祠を作ってご神体をお祀りしていたが 昭和13年 社殿を新築して現在に至る。
 

 《註》 天草独自の十五社宮は、海に生きた原住民、すなわち古代天草の海人族が信仰を寄せた還シナ海文化圏につながる龍(神)宮が「ジュクサさま」「ジュウゴさま」と転訛していたものに「十五社」の漢字をあて、いつしか天照大御神や阿蘇十二神をふくむ大和朝廷文化圏の神々十五社をあてて併祀したものらしい。この十五社は、戦国時代まで天草郡に属していた薩摩の獅子島、長島、それに江戸時代まで天草と海上交易が盛んだった肥後の高橋松合にもある。・・・本渡市史より




天草市指定文化財
延命地蔵 天草市佐伊津町


 顔なし延命地蔵尊延命地蔵尊は、顔なし地蔵、鼻なし地蔵とも言われ、御利益を願う人々の香の煙が絶えない。ある年の大旱魃は、百姓たちの田をからからにしたが、地蔵さんの田だけがいつも満々と水が溢れているのを不思議に思った百姓が、ある夜ひそかに地蔵さんの田を見張っていると、人影が現われ、どこからともなく水を引き入れている。声をかけると、返事もなく闇の中に消えた。百姓は地蔵さんの化身に違いないと、御堂にかけ込み「自分の田だけに水を引くとは何事ぞ」と鉈をふるい、地蔵さんの顔を切りつけた。ところが、百姓は不思議な病にとりつかれ、真黒焦げになって命絶えた。それ以来地蔵さんの顔は見るも無残となったが、百姓たちは地蔵さんの法力に心服し信仰を深めた。
昭和63年12月吉日 佐伊津町畑田ボーリング代表者 畑田敏夫

延命神社




矢筈岳観音
 天草市本町平床

 
矢筈岳観音は寛延2年(1749年)平床地区の篤信有志によって開創された。
この時代は、大雨、洪水かと思えば干魃と毎年のように不作が続き貧困な村人の生活に加えて、疱瘡と疫病が流行した時代であった。このような苦しみの中で、村人は、何か尊く強い神仏の力にすがって生きようとした。この村人の願いが観音信仰に向けられたものと思われる。
観音経のなかにある「村人が困難や災難にあい無量の苦しみがその身にふりかかった時、一心に観念を念ずればそのお力は、どんな小さな声でも聞き届けて、その苦しみを救って下さる」という信仰からこの観音様に救いを求めたのであろう。
旱魃が続けば、村人たちは、矢筈岳の観音堂に集まり、太鼓を打ち鳴らし、声高らかに天を仰いで、観音様に「雨乞い」をしたのである。また、疫病に罹れば、ひそかにその平癒を祈願して矢筈観音に日参した。近くは、世界第二次大戦中、出征軍人の武運長久を祈願したのである。かくして、開創以来250年余り、各地からの観音信者によりこの霊域が守られてきた。
なお、矢筈観音の所蔵として、「地獄極楽軸」がある。








塞埜神社 苓北町上津深江

塞埜神の由来
 
古くから悪疫や悪病・悪魔が村に侵入するのを防ぐために祀った道祖神を塞埜神と呼び社殿を建立して地域の守護神として多くの信仰を集めてきました。
   それが何時の頃からか同神に祈願することで手や足・腰痛の難病が癒り又「性神」として崇められ夫婦和合により子宝に恵まれると共に悪疫・悪病に霊験あらたかということで戦前は旧満州や関東関西をはじめ九州各地から多くの信心者が集まり毎月二十一日の祭日にはその人たちが列をなしました。
 現在でも近郷近在のたくさんの方々が参詣して健康祈願しています。

昭和六十三年三月吉祥日






百貫様の伝説  天草市本町平床

 平床川の源流、通称ゲダの里に苔むした杉小立の中、百貫石と云う巨大な一個の石が有り、その頂点に慶応の御代より春日大明神をお祀りしてあります。
 子供のひきつけには凄い力の霊験があると言われております。
 其の百貫石の下に昔から金の鳥が棲んでいて、一年に一度大晦日の夜更けに、石の下より出て羽ばたき水浴をすると言い伝えられております。
 その水を飲むと長寿を保つことができるそうで、今から60年位前(1930年)までは、金の鳥の霊験にあやかりたいと、一家の主人が元旦の明け方、まだうす暗い内に必ず平床川源流の水を汲み、お茶を沸かし神棚に供え、家族全員でいただき一年間の無病息災を祈願したものでございます。
現在では、毎年4月8日に、平床地区の区長さんをはじめ地区民や各地からの参詣者も多く境内一ぱいにぎやかな祭りがなされています。
 平成5年11月  平床自治公民館






麟仙宮 天草市新和町大多尾
                          旧新和町指定文化財


 志岐麟仙は小西軍勢の攻撃が熾烈になるにつれ、不安は募ったが、折りよく志岐氏より援軍を求められていた島津義虎は、数千の兵を率いて数十隻の船に織布を押し立て獅子島の島陰で策を練り、いざ麟仙の処におもむかんとする時、一方麟仙の陣営では之を敵の大挙襲来と見あやまり本陣の城山をぬけ出し、構えが鼻を通り、陣小手伝に田淵の陣山に落ちのび、もはや打つ手なしと悟り、無念の涙を呑んでこの地にむいて自刃した。殿の死をいたんだ家臣と村人たちは土佐平の台地に墓地を定め石棒にて殿の棺を運んだが、六尺豊かな麟仙の巨体に石棒は折れてしまった。
(今もその村を石棒と呼んでいる。)里人たちは、今なお麟仙を軍の神・農耕の神として、毎年旧815日を祭日と定め近郷近在の参詣者で賑わいを呈している。




岩谷観音 天草市五和町御領
 旧五和町指定文化財


 
板碑に等身大の見事な観音像が彫刻されているが作者は詳かでない。享保15年(1730)の開眼。左手に洒水《しゃすい》をのせ、右手に柳の小枝を持った楊柳観音である。もと、この観音はここより西北方の専福庵(松ケ迫)にあったが人里へ移り困っている人々に功徳を授けたいと三郎右エ門の夢枕に立ち、ここに移されたもの乳授けや安産祈願の観音として近隣の人々の信仰が篤い。俗説によればこの観音様は毎年一度は京のぼりをされ、その時は衣のすそがほこりで汚れていると伝えられている。








精根様   天草市有明町須子

 性の神様は各地で多く見られるが、天草では比較的少ないのではないだろうか。
 この神様は有明町の須子にある、素朴な神様である。たまたま見つけた男根に似た石から、安産や精の神様として地元の人が奉ったであろうと思われる。



 「天草・霊験の神々」濱名志松著・によれば、この神様は男女の性神から一歩踏み込み、農作物の豊作まで霊験を広めたという。さらに魔除けの神としても霊験があるという。

 私みたいに、単なる石としか見ない罰当たりが言うと、怒られそうだが、どうも日本人は神への願いがあまりにも多すぎやしないか。神様だって、勝手に力を拡大解釈されたら困るんではないだろうか。

 ここは一つ、性の神として精神を統一されたほうが、霊験あらたかだと思うがいかが。