洋上の歴史の島湯島探見

   島原湾に浮かぶ湯島(ウィキペディア)。島原と大矢野島のほぼ中間に位置する。天草島から見ると台形状のこの島は、面積 0.52㎢、周囲6.5㎞の小さな島である。
 この島は、天草島原の乱で、天草、島原のリーダーたちがこの島に集い、作戦を練った島として知られる。そのため、「談合島」とも呼ばれている。
 早速、島の探見に出かけよう。
 湯島へは、大矢野島の江樋戸港から定期船が出ている。定期船は、昭和丸と菊盛丸の二隻で、一日5往復、所要時間は30分。
 
 この島がなぜ湯島と呼ばれているのだろうか。お湯が沸くでもないところから、疑問がすぐに浮かぶ。地元の人に聞いても知らない人が多いようだ。
 一説によると、この湯島はもともと火山活動によって、海底から隆起溶岩台地で、全体が石で構成された島であった。そのため、「石間」と呼ばれていたが、いつの間にか、いしま→ゆしまとなったようだ。(※1)

 住家は島の南側に集中している。人口はおよそ500人ほどだという。先日訪れた時聞いた話では、小学生はたった一人であるという。

 港からほぼ直角に頂上へ上る道がある。車は通れないかなり急坂だ。この道とは別に、軽自動車くらいなら頂上まで登れる道がある。港から左に海岸線に沿って行くと、途中から分岐道が頂上に伸びている。この道は緩やかだ。また、海岸線を一周できる道もある。

 湯島は、猫の島ともいわれている。しかし猫の姿をあまり見かけない。これは数年前に流行った伝染病で多数の猫が死んでしまったという。

 さて早速、湯島探見へ。まず急坂を登って、頂上へ向かおう。
 登ってすぐに諏訪神社があり、銀杏の大木がある。ふるさと熊本の樹木に指定されており、樹齢は300年という。
 この神社境内に鍛冶水盤がある。
 さらに登ると、高山右近隠棲の地の案内板が建っている。高山右近はキリシタン大名で、信仰を捨てない秀吉の怒りにふれ改易となった。そこで右近と親交のあった肥後国南半分の領主、小西行長はこの湯島で保護したといわれる。しかし、これは誤りで、湯島でなく、小豆島の事だという。小豆島も行長の領地。(※2)
 そして頂上へ。頂上はかなり広い広場で、歴史公園があり、湯島名物の湯島大根が植えられている畑がある。
 公園には、「談合嶋之碑」が建っている。この碑の建立者は、元大矢野町長でこの島出身の故森慈秀氏である。彼は、天草五橋の建設に力を尽くしたことで有名であり、彼の銅像が天草五橋2号橋のたもとの公園に建立されている。題字は、徳富蘇峰の直筆という。この碑の横に碑文が建立されているが、文字が摩耗しほとんど読み取ることができない。
 (※1) 「周縁の文化交渉学シリーズ 天草諸島の歴史と現在 第3章 湯島史跡調査の記録」 関西大学
 (※2) 「有明海キリシタン史の旅」天草歴史文化遺産の会


湯島全景と湯島案内看板 

中は天草方面から見た湯島

 
   天草島原の戦い時の鍛冶水盤
            上天草市指定文化財(有形文化財)

 この水盤は、寛永14年(1637)天草の島原の戦い当時350有余年前、切支丹教徒等が本島峯の盆地に集まり、軍評の傍ら武器制作の際鍛冶職人が使用したものと伝えられている。
 この水盤は、かつて島の畑の中で発掘されたのを、天草郡御領大島の鍛冶職人が島を訪れた際大島に持ち帰り、大島の常泉寺に寄進されていたのを、昭和6年末頃、湯島校長らが中心となり、同寺に交渉して漸く取り戻し、村長の計らいでここに安置されたものである。

平成7年12月吉日 上天草市教育委員会 

※有識者によると、鍛冶水盤にしては小さすぎるとの評あり

高山右近隠棲の跡
                   大矢野町史跡

 高山右近は摂津の国高槻(大阪府)の城主であった。豊臣秀吉とともに明智光秀を破り、その功によって明石6万石に転封された熱心な切支丹大名であった。その後秀吉の怒りにふれ改易となったので、日頃親交のあった小西行長はいたく心配して、自分の領土内で外部と隔絶したこの地に隠棲をすすめた。右近は非常に感激し一家をあげて密かにこの地に移った。
時は天正16年6月のことであった。小西行長は、この島を切支丹大名にまかせ他の者の出入りを禁じた。
平成7年12月吉日 上天草教育委員会

※ この案内板は、港から頂上へ上る急坂の途中にある。
  史実として伝えられるのは、高山右近が小西行長の庇護を受けたのは一時的で、天正16年には、前田利家に招かれ、この地で過ごした。のち、徳川家康のキリシタン追放令をため、マニラに逃れ、元和元年(1615)に病没した。享年64歳。

 
  切支丹(カマボコ形)墓碑

  指定文化財(有形文化財)

 この碑は天草島原の戦い以前にこの地に入り込み客死したキリスト教徒の墓碑といわれており、碑面には十字形が認められる。
昭和48年5月大松墓地(港の近く)より移転したものである。
 平成7年12月吉日 上天草教育委員会 

 
 涼泉院殿月江宗白居士塚

            指定文化財(有形文化財)

 この碑は有馬家第十三代城主晴信の実弟純實の碑である。純實は兄晴信の怒りをかい、この地に流された後殺されたと伝えられている。
 昭和48年5月大松墓地(港の近く)より移転したものである。
  平成7年12月吉日  上天草市教育委員会 

  談合の跡 湯島公園
          大矢野町史跡

 談合島とは湯島の別名である。
 寛永14年10月25日有馬に変がおこるや、11月1日信徒代表大江源右エ門は大矢野に至り、益田四郎時貞を救主に仰ぎ君主の礼をもって迎えた。
 四郎は、森宗意等首脳部50余人とともにこの島に上陸し、戦略の秘策を談合した。又天草の各地の信徒幹部は、たくみに潮流の干満を利用して集まり談合したり、武器の製造をした。世にこの島を談合島と所以である。
 平成7年12月吉日  上天草教育委員会 


談合嶋之碑について

 当碑の建立は、昭和28年12月28日であり、旧五ヵ町村合併による大矢野町誕生の1年前の「湯島村」と称する最後の歳の建立である。
 建立者は当湯島出身の元大矢野町長の森慈秀翁である。森慈秀翁といえば天草架橋実現に半生を捧げられた先哲である。この他に色々と行政などに尽力されたご功績は各位ご存じのとおりです。  
 碑の正面題字『談合嶋之碑』の筆跡は徳富蘇峰先生の直筆である。蘇峰先生は弟蘆花と共に熊本が生んだ偉大な歴史、評論、小説家で、明治、大正、昭和時代の文化関係重鎮として活躍された先生であります。
 碑文は慈秀翁の書き下ろしで談合嶋の名称の謂れから始まり、天草島原の乱時の島原、天草両郡の領主の圧政。一揆の発生の理由、天草四郎の殉教戦での善戦、原城での三万八千信徒殉教者への追悼文からこの碑文は構成されている。最後に慈秀翁の詩が刻まれている。
  談合し人をしのんで
         たたずめば
   かすかにむせぶ
         みねの松風
                慈秀

  平成9年4月30日記す。
      大矢野町観光商工課

 
  遠見塚の跡  大矢野町史跡

 寛永年間天草四郎時貞が一揆を起こそうとするにあたり高杢天草の鍛冶職人28人をこの島に集め槍、長刀等を作らせるのに椎とが外部に漏れるのを恐れ島の最高所に横9尺高さ2丈に土を築き上げその上に番屋を作り番人をおいて四方より来る船を見張らせたといわれ、300有余年を経過した今日においては何等のあとかたも見ることが出来ずただ当時を偲ぶだけであるが地形上からこのあたりではないかといわれている。
 平成7年12月吉日
   上天草市教育委員会  

頂上の景色

中は生育中の湯島大根
。湯島大根はという品種があるわけでなく、普通の大根だが、この湯島の土がおいしい大根を育てるという。ただし、栽培数が少ないので、幻の大根と言われている。

一ちょ墓供養塔

 寛政四年(1972年)4月1日夕方、雲仙普賢岳が噴火爆発し、大地震とともに島原の眉山は頂上から大音響を発し崩れ落ち町や村を埋めつくし、有明海へなだれ込んだ。有史以来最大の火山爆発といわれ、対岸の肥後熊本、天草の海岸は大津波に襲われ、空前絶後の大惨事をこうむった。この津波の高さは5mから20mといわれている。
 死者14,400人、負傷者1,500余名の多数にわたり、中には年若い母親が幼い2児を身体にくくりつけたままで岸に打ち上げられていたり、あわてて寝巻姿で抱き合ったままの男女の死体があったりで、各地に哀話が残っている。
 この墓石は湯島の村人達が、打ち上げられた罹災者の死体を集め、ねんごろに埋葬し供養した建立碑であるが、碑文は刻まれてなく、種々の言い伝えが残されているのみである。こころねのやさしい村人達が罹災者の霊を慰めてくれたよすがとしての証である。
 平成8年4月吉日 大矢野町教育委員会

※この碑は、港から左へ海岸沿いに行くと道脇の茂みの中にある。
 島原大変 肥後迷惑

 
キリシタン墓碑

この墓地に平型キリシタン墓碑で側面に十字架が刻まれている。
天正15年(1587)~慶長19年(1614)時代の湯島在住有力キリシタン信者の墓碑である。尚同型墓碑は湯島に於いて2基目の出土である。

※この墓碑は神社の下の民家の庭先にある。

 
 
   腹が減っては戦が・・・

おなかがすいたら乙姫屋へ。
 

 
   
 
義人 横田伝兵衛の碑

 2015年10月4日、天草歴史文化遺産の会主催による、湯島探訪ツアーが開催された。
 貸切船から港に着くと、風にはためく旗が立っている。その旗には「その昔、湯島の島神さま 伝兵衛さん 三百年祭」の文字。 
 伝兵衛さんて誰? このツアーの案内講師、浜崎献作先生(元サンタマリア館館長)もご存じないもよう。
 この日、ちょうどこの祭りが開催されており、しばらく傍席した。
 写真のように、港から左へ海岸線に沿った道路を数百メートル行ったところで、その祭りは開催されていた。
 伝兵衛さんについては、画像(サムネイル)を見ていただく事にして。
 この地の近くに灯台があるが、そのやや高台からは、原城址が望める。
 この景色から、かつての天草と島原の民人が、両領主の圧政に抗するため、この島で結団をし団結を固め、作戦を練り、そして江戸幕府を恐怖に貶めた戦いを展開した地の利を容易理解できる。
 地域起こしとしても、こうした歴史を掘り起こし、それを誰にも目にすることができる碑等を建立するなどして、後世に残すことは素晴らしいことだ。
 

 
海から見た原城址