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木山弾正

木山弾正の墓

 天正の天草合戦で、天草氏の客将として小西・加藤連合軍と戦い討死した木山弾正。
 その墓は、天草氏の居城、本戸城の城跡にある。また、近くには子孫建立の弾正社がある。

仏木坂古戦場

 天草市本町の東向寺付近から苓北町へ抜ける農面道路のちょうど峠付近に、天正合戦の古戦場「仏木坂」がある。弾正が清正に討ち取られたといわれる所である。ここには、私が不思議坂と呼ぶ、2ヶ所の坂がある。弾正坂・お京坂と呼ばれ、看板が建っているのですぐ分かる。
 この看板のところに車を止め、(苓北から本渡へ向けて止めると分かりやすい・他の車両に気をつけて)ギヤをニュートラルに入れると、坂道をそろそろと登り始めるから、驚きだ。

兜梅

 天草市浜崎町の延慶寺には、500年は経つといわれる梅の古木がある。兜梅と呼ばれ臥龍梅である。ここを訪れた司馬遼太郎は、「街道を行く・17島原半島天草の諸道・朝日文庫」の中でこの梅の木を絶賛している。興味のある方は、ぜひ一読されたい。その一部分は兜梅の説明と合わせ案内板に所載されているので、紹介する。

 
 (以下、斜字以外の文は全て現地の案内板による)



木山弾正の墓 天草市城山公園
木山弾正の墓


写真は弾正の墓(右)。
左はお京夫人の墓。




肥後赤井の城主木山弾正は豪勇をもって聞こえた武将であったが、島津の北上によって城を失い、外戚の故をもって天草伊豆守に迎えられ、客将として本戸城にこもった。
 天正17年、たまたま宇土築城の加勢をめぐって、天草の諸将は小西行長と対立し、ついに行長の天草攻めとなった。行長は豊臣秀吉に上訴し、加藤清正の応援を得て、まず志岐城を攻めた。弾正は兵500を率いて志岐へ向かい、仏木坂に清正を迎えた。単騎敵将清正を求めて、敵中深く突入し一騎打ちをいどみ、清正を組み敷き、まさに首級を挙げんとした時、主君危うしと駆けつけた自分の家来の誤った槍にかかり、豪勇並ぶ者もない弾正も遂に戦場の露と消えたのである。
 遺骸は本戸城一の丸のこの地に葬られる。



弾正社由来 天草切支丹館裏

頃は南北朝 新田左京太夫備後守貞昌 正平12年 征西大将軍懐良親王に従い九州に下向 菊地氏と共に少弐大友と戦い平定後孫左近大夫惟政阿蘇家客将に迎えられ肥後益城に木山郷を造り木山姓に改名世々城主たり 天文13年木山城主木山弾正惟久 島津に攻められ落城 弾正は天草種元の外父の故を以て本戸城客将に迎えられた。
天正
17年 天草合戦に及び本戸城より弾正手勢500を引き連れ志岐麟仙と加藤清正軍を佛木坂に迎え清正と一騎打して戦死 長子傳九郎も此時討死 一方本戸城主天草種元留守を預かる弾正の妻お京の方 加藤小西有馬大村の連合軍の総攻撃を受け種元以下自刃 弾正の妻お京の方娘子軍30余を引き連れ斬り死に 哀れを止めて本戸城の落城となれり 云々

 浜崎区奉賛会
 昭和
6312月吉日400年祭敬記        14代木山惟彦




仏木坂
古戦場  苓北町志岐

名勝 仏木坂

古くから志岐と本戸を結ぶ唯一の交通路は、本戸往還といい仏木坂を越えることから仏木坂越えといわれ県道本渡富岡線が開通するまでは、人馬の往来が盛んであった。
 天正17年(1589年)加藤清正が志岐城の志岐麟泉を攻めたとき、清正と麟泉の客将 木山弾正が一騎討ちをして清正が勝ち志岐城を開城させる端緒をつくったという由緒がある。




























弾正坂 手前苓北方面 どう見ても前方へ下っているように見えるが、ニュートラルにすると車は後ろのほうへ進む。

木山弾正無念坂

ここから苓北方面へ100mでお京坂。そこで止まってギヤをニュートラルにするとあなたが思った方とは逆方向に車は静かに動き出すはずです。

仏木坂伝説

豊臣秀吉が天下統一をして間もなく、天草は小西行長の支配下となった。行長は宇土城の普請を志岐麟泉ら天草の五人衆に命ずるが、彼らはこれに従わない。怒った行長は、ここ志岐城の麟泉を攻めるが、もろくも敗れて加藤清正に援軍を求める。これが世にいう天正の天草合戦である。この折のこと、乱戦の中、本戸城の客将木山弾正は、ひたすら清正を求めて、つき進み、ようやく巡り合って、ここ仏木坂での一騎打ちとなった。片や虎退治の勇将清正、対するは怪力無双の猛将弾正、組んず解れつの戦いは一刻に及ぶが、なかなか勝敗がつかない。あたりは、もはや黄昏れて視界もきかない。この時のこと駆けつけた彈正の家臣が「ご主君はいずれに…」と声をかけると、生来吃りの弾正は返事ができない。咄嗟に答えたのは、組み敷かれている清正である。「弾正は下に…」と。あわれ弾正は清正に馬乗りになっていながら家臣の槍で落命したという。坂道を降り切った車がひとりでにバックするのはこの弾正の無念の霊魂が呼び戻しているのではあるまいか。仏木坂に残る伝説である。

 本渡ロータリークラブ・西天草ロータリークラブ
 苓北町


弾正坂

木山弾正惟久。もと肥後木山の赤井城々主。島津氏の侵攻をうけて落城。そのあと、縁つづきの天草伊豆守種元を頼って本戸城の客将となる。のち天正の天草合戦において、ここ仏木坂で加藤清正と一騎打ちを演ずるが、家臣の手にかかって無念の討死。また、その一子、横手の五郎は父親ゆずりの怪力無双の勇士であったが、清正を亡父の仇と狙い、また熊本築城の秘密を知るが故に城内の井戸にて謀殺されたと伝えられる。

お京坂
 
 お京の方。木山弾正の妻。仏木坂における夫弾正戦死のあと、清正、行長の連合軍は弾正の居城本戸城を包囲するが、その時、お京の方は夫の鎧、兜に身を固めて娘子軍三百余名と共に打って出る。しかし、梅の小枝に兜をとられて女と判明。あわれ雑兵の手にかかって落命。「花は咲けども、実はなるまじ」とは今に残る本渡市延慶寺「兜梅」の伝説である。





兜梅    延慶寺苔生園  天草市浜崎町


熊本県指定天然記念物兜梅  

昭和57年8月28日指定


 一本の梅の木から縦横に枝が延び、枝張りは東西約11メートル、南北約6メートルある。主幹の樹高は約3メートル、根回りは約2メートルあり、樹齢約500年といわれる。
 主幹は朽ちているが、縦横に走る枝がつぎつぎと先に延びているため、臥龍梅とも称されている。
 一時、枯死寸前であったが、その後の手入れにより、今では見事な一重の白い花を咲かせる。
 兜梅と称されるようになったのは、天正の天草合戦
(天正17年、1589)のとき、本戸城で小西行長、加藤清正連合軍と戦った天草勢の中で、奮戦した騎馬武者の姿をした婦人(加藤清正に討ち取られた木山弾正の妻お京の方)の兜の錣がこの梅の枝にからまり、身動きできず斬られた事に由来する。
  熊本県教育委員会


県指定天然記念物兜梅由来 

天正17(1589)1125日、加藤・小西の連合軍に十重二十重と取り囲まれた本戸城は、はや落城の寸前かと見えた。
その時、城門さっと押開いて躍り出た、二三十騎の騎馬武者の一隊があった。その先頭にたっているのは、まぎれもなく豪勇無双を以って鳴り響いた木山弾正その人である。弾正の率いる騎馬武者の一団は、敵陣の中に切り込み当たるを幸い薙倒した。とある梅の木の側に寄った時、梅の小枝に兜の錣をからませ、身動きとれず遂に討ち死にした。首級を挙げて見ると、弾正ではなく、緑の黒髪を流した弾正の奥方お京の方であったと云う。つき従う騎馬武者も皆戦死したが、何れもうら若い娘氏軍であった。数日前、志岐の佛木坂の戦で敵将加藤清正ととの一騎討ちに敗れた夫の弔い合戦にと、夫の鎧兜を身につけね戦国武将の妻の心意気を示したものである。木山弾正は肥後木山の城主で、本戸城主天草種元とは姻戚関係にあるため、木山城落城の後本戸城に合流していたと云われる。


兜梅
  司馬遼太郎観梅の辞

 柴折戸を押すとすぐ開いた。なかは瀟洒な茶庭で、庭としてはよほど古いものらしく思われた。さらに庭の奥に入ると無数のクリーム色の点がうかんでいた。三千世界に梅の香満ちると云う ことばがあるが、香よりも何よりもこの場の場景は、花の美しさだった。
 樹齢は五百年ほどだという。ぜんたいに低く、苔の丘いっぱいにひろがっている。
 目をこらすと、原の幹は鉄のかたまりのように地にうずくまっているだけである。そこから、いずれも百年は経つかと思われる太い幹が、地の横たわりつつ幾つかの方角に伸び幾頭かの臥竜が動いているようにも見える。
 その臥竜ごとに根がつき、その根のあるところからまた幾つかの小古梅が幹を立て、枝を天に突き出し、あるいわからませている。それらがすべて花をささえている。
 白梅にはチリ紙のように薄っぺらい白さのものが多いが、ここの梅の花は、花弁の肉質があつく、白さに生命が厚っぽく籠っているような感じがする。
 ともかくも、こういう梅の古木も花の色もみたことがなく、おそらく今後も見ることがないのではないかと思われた。

「街道を行く」週刊朝日(昭和55年10月10日号所載)