五足の靴 の碑
「明治40年8月7日、五足の靴が五個の人間を運んで東京を出た。五個の人間は皆ふわふわとして落ち着かぬ仲間だ。彼等は面の皮も厚く無い、大胆でもない。而も彼等をして少しく重みあり大量あるが如く見せしむるものは、その厚皮な、形の大きい『五足の靴』の御蔭だ。」
「五足の靴」冒頭部分だ。
「五足の靴」冒頭にあるように、明治40年(1907年)夏、新詩社の与謝野寛、北原白秋、吉井勇、大田正男(木下杢太郎)、平野萬里の五人はキリシタン史跡の多い九州旅行をした。
旅行は1ヶ月近い期間であったが、旅の焦点は天草であったといわれている。この天草での体験が、彼らの文筆に大きな影響を与えた。
紀行文からちょっと抜き出してみよう。富岡から大江に向かう途中のはなし。
顧みれば淡く霞んで富岡半島がまだ見えた。
三里か四里は来たらう。茶屋の婆に婆の言葉ちっとも分からぬと言ふと、あんた方の云わっしゃる事も分かりまっせんと言った。婆さん子供があるかい。ありますとも。幾つだい。幾つだって大勢居るさあ。爺さんは居るのかね、爺さん居らつさんば、一寸楽みも御座いますたい。とやったので皆吹き出してしまった。歯抜け婆さんの愛嬌のあることよ。
旅の様子が生き生きと活写されている。一読して見ませんか。
「五足の靴」について詳しい事を知りたい人は
『五足の靴と熊本・天草』浜名志松編著・図書刊行会を参照ください。「五足の靴」全文も掲載してあります。
五足の靴上陸地 (富岡港)
明治40年(1907)年8月9日、与謝野鉄幹・北原白秋・木下杢太郎・平野万里・吉井勇この5人の文学青年が天草キリシタン遺跡探訪の為長崎を経て茂木から小さい汽船で富岡港に上陸した。天草への第一歩であった。5人は富岡町を散策し富岡に1泊、翌10日徒歩で現天草町大江に到着木賃宿高砂屋に一泊した。翌11日に大江天主堂のガルニエ神父を訪ね、更に大江村から汽船に乗り牛深町へ向かい、今津屋に泊った。あくる12日牛深発午前3時際崎(三角行の汽船に乗り天草を離れた記録は有名である。
一行5人の天草3泊4日の旅これが五足の靴の旅路であった。
苓北町教育委員会
五足の靴 = 文学遊歩道
明治40年夏新詩社主宰の与謝野鉄幹(35歳)と同人の北原白秋(早大文科23歳)吉井勇(早大文科22歳)木下杢太郎(東大医科23歳)平野万里(東大工科23歳)の五人は、九州のキリシタン遺跡探訪の途につき、佐世保、平戸、長崎を経て8月9日長崎県茂木港から苓北町富岡に渡って一泊し、翌十日富岡から山坂の旧道を天草町大江まで歩いた。
一行はその日大江に一泊し翌十一日大江教会堂に司祭のガルニエ神父を訪ね、牛深を経て天草を去った。その時五人が交互に書いた紀行文が「五足の靴」と題して残されている。
その後、この旅を転機にして同人たちの文芸活動は躍進し白秋は42年に「邪宗門」を刊行し、他の四人もそれぞれ独自の境地を開いて近代文芸史上に画期的な展開を遂げるに至った。
文芸評論家の野田宇太郎氏は、「この天草の旅が彼等の南蛮文学の夢を育てた」とその旅の意義を讃え、昭和27年5月この天草の旅を記念して天草町大江に建てられた吉井勇の歌碑の除幕式に再遊した吉井勇は「あの時の天草の旅が私の一生を決定づけた旅であった」と述懐し、
ともにゆきし友みなあらず我一人
老いてまた踏む天草の島
と往時をなつかしんだ。
昭和53年6月 天草町教育委員会
文学遊歩道(五足の靴)
明治40年、若き日の与謝野鉄幹、北原白秋、木下杢太郎、平野万里、吉井勇の五人が天草西海岸を訪れた時に、交互に書いた紀行文が「五足の靴」である。彼等の旅の目的はキリシタンの遺跡を訪れることであった。この旅を転機に白秋が「邪宗門」を刊行したのをはじめ、他の4人もそれぞれ文学の新境地を開いた。一行は長崎の茂木から富岡に渡り、西海岸に沿って徒歩で大江天主堂のガルニエ神父まで訪れている。後年与謝野鉄幹は夫人の晶子とともにこの地を再訪している。
《好天に恵まれた初春のある日、この遊歩道をのんびりと歩いた。
下田温泉から下田南まで3.2kmが文学遊歩道として天草町により整備されている。道は山道で、途中国民宿舎あまくさ荘の横に出る。更に歩くと今度は国道を横切り、鬼海が浦の集落を通り、笠松公園の入口で終わる。難点は、終点からの引き返し。遊歩道を歩くか、国道を歩いて帰ることになる。複数でニ台の乗用車があれば、終点にあらかじめ一台置いておく事により、帰りがぐっと楽になる。道は間伐材などを利用して良く整備されており、歩きやすい。また、100mごとに残り何キロの案内板があり、目安になる。途中には、「五足の靴」本文(抜粋)の案内板や短歌の石板なども設置されている。しかし、なんといっても数カ所設置されている展望所からの眺め。藍より青い天草灘の絶景は、素晴らしいの一語に尽きる。》
この様子はこちらをどうぞ
与謝野鉄幹夫妻の歌碑
五足の靴で天草を訪れた与謝野鉄幹は後年晶子夫人を伴い天草を再訪した。この時呼んだ夫妻の詩の歌碑が松島町合津、天草町高浜に建っている。
高砂屋旅館 天草市天草町大江
五足の靴ご一行様 宿泊旅館
五足の靴文学遊歩道 入り口の碑
《付録》
先日訪れた垂玉温泉に五足の靴の碑があったので、紹介します。
五足の靴 阿蘇郡長陽村 垂玉温泉 山口旅館
明治40年(1907年)夏、若き日の北原白秋、木下杢太郎、吉井勇、平野万里、与謝野鉄幹の五人が九州旅行した折、長崎-天草-熊本を経て阿蘇登山の道すがら、同年8月13日当館に宿泊した。
この九州旅行の旅行記『五足の靴』は『五人づれ』の匿名で当時の東京二六新聞に連載されていたものを、昭和24年に至り、野田宇太郎氏が、『パンの会』に収録して世に紹介された。浪漫に満ちたこの紀行文は、南蛮文学の源泉として近代文学の中で新しい文芸運動の契機となった貴重な遺産といわれている。
『五足の靴』の中で一行の五人は当時の旅館のたたずまいを、「後に滝の音面白き山を負ひ、右に切っ立ての岡を控え、左の谷川を流し、前はからりと明るく郡山を見下し、遥かに有明の海が水平線にひかる。高く堅固な石垣の具合、黒く厳しい山門の様子、古めいた家の作り、辺の要害といひ如何見ても城郭である。天が下を震はせた昔の豪族の本陣らしい所に、一味の優しさを加えた趣がある。これが垂玉の湯である。名もいいが、実に気に入った。」と感嘆している。
当時の旅館の当主は3代目山口廣記であった。