江戸時代 天草に於ける疱瘡(天然痘)史 |
2019年、中国で発生した新型コロナ(COVID-19)は、またたく間に世界的拡大を見せ、2022年に於いても終息の見通しは依然としてない。 現在、医科学が江戸時代と比較にならないほど発達した現在でも、ウイルス絶滅は至難の業である。 まして、江戸時代に流行した疱瘡(天然痘)に、人々は驚異の病気であった。 疱瘡は、伝染病であるために、有効な治療法がなかった当時、拡大を防ぐためには、罹病者を隔離するほかはなかった。 この隔離に対して、人びとはどう動いたか。高浜村(現天草市天草町高浜)で大流行した疱瘡の対処を、時の庄屋・上田宜珍は、記録に残している。 貴重な記録だ。そして、隔離に対しても、姥捨て山のように、ただ放棄したのではなく、手厚い看護を施しているのも見逃してはならない。 また、他村からも、食糧などの支援もしている。 ただ、上田宜珍の日記を読むことは困難な面もあるが、東 昇氏が、簡潔にかつ詳しく述べられている論文があるので、是非目を通して欲しい。 東 昇 近世後期天草郡高浜村における疱瘡流行と迫・家への影響 やがて、医科学者の研究によって、種痘(牛痘)の技術が発見・開発され、疱瘡は現在世界的に絶滅した。 新型コロナも、やがて絶滅する日が来るのだろうか・・・・・。 |
江戸時代天草の疱瘡(天然痘)史 | ||||
西暦 | 和暦 | 月日 | 内 容 | |
1662 | 寛文 | 2 | この夏 | 長崎で疱瘡大流行・3,300余人の死者。 |
1779 | 安永 | 8 | この年 | 益田村(現天草市河浦町)で疱瘡流行。 |
1794 | 寛政 | 6 | この春 | 牛深村、中田村(現天草市新和町)は疱瘡流行により、踏絵が中止となる。 |
1794 | 寛政 | 6 | 3.- | 富岡五丁目船津で疱瘡発生。直ちに山小屋へ罹病者を隔離する。 |
1794 | 寛政 | 6 | 4.- | この月初旬、町方が談合し、役所にも願済みの上、山小屋隔離の疱瘡人を自家養生させたところ、たちまち流行しだし、町中8百余人も患いつき、内80人ほど死去。 |
1794 | 寛政 | 6 | 6.- | 富岡町の疱瘡、益々猖獗(しょうけつ)を極め、町中残らず患いこむ。また志岐村へも伝染する。 |
1794 | 寛政 | 6 | 10.29 | 志岐村の疱瘡完全終息。 |
1796 | イギリスの医学者、ジェンナー、牛痘を実証。(W) | |||
1807 | 文化 | 4 | 12.14 | 高浜村諏訪通りから流行し出した疱瘡の罹病者が翌春180余名に及ぶ。 庄屋上田源太夫(宜珍)、医師宮田賢育を頼み、山小屋での救護に当たらせる。 最初よりの罹病者150人中61人死亡し、90人は助かる。 その後収まったと見えたので、医師引取後またまた14人が患い、11人が死亡。更に相次いで20人程も続出。いずれも船により他国養生に出す。 (この件に対しては、「天草郡高浜村庄屋 上田宜珍日記 文化四年、文化五年」に詳しく記されている) |
1808 | 文化 | 5 | 3.16 | 大矢野三か村で疱瘡流行のため、宗門改め廻村が除かれる。 |
1809 | 文化 | 6 | 8.- | 志岐村で疱瘡流行。小野田代官、町年寄、町庄屋等が同村に詰め切り防疫に努めたが、9月に入って益々猖獗を極め、同村大庄屋平井為五郎は隣村に立ち退く。 10月に入ってもますます蔓延し、何時富岡町へ侵入するかもしれないという恐れにより、会所詰大庄屋、庄屋連は恐々として、執務も上の空となる。 また、まもなく、年貢米納期となるが、万一会所詰の者が患い付いたら、混雑や手落ちのことになる恐れがあるということで、この際会所詰大庄屋、庄屋、筆者、蔵番に至るまで、かつて疱瘡に罹った者と交代する。また年貢米運送の者も、村々にて疱瘡に罹った者をこれに充てるよう、会所側から役所へ珍要求が出される。 |
1810 | 文化 | 7 | 1.- | 去年冬以来富岡町、志岐村で疱瘡大流行。 |
1810 | 文化 | 7 | 2.13 | 志岐村の疱瘡が終息。諸お祓いを済ます。 |
1810 | 文化 | 7 | 3.3 | 富岡町の疱瘡が終息。諸お祓いを済ます。 |
1810 | 日本で初めての牛痘実施。 ロシアに拉致されていた中川五郎治が帰国後田中正右衛門の娘イクに接種・ただし、中川は牛痘法を秘密にしていたため広く普及せず。(W) |
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1829 | 文政 | 12 | 1.- | 昨年冬より志岐村で疱瘡流行し、10軒ほど患い、富岡五丁目でも1軒が発生する。 このため、当春の踏絵が延期される。 |
1829 | 文政 | 12 | 2.- | 大矢野島3ヶ村で疱瘡流行。 |
1829 | 文政 | 12 | 6.1 | 志岐村で流行した疱瘡がようやく終息し、この日清め祓いを行う。 |
1830 | 天保 | 1 | この年 | またまた志岐、富岡で疱瘡流行。 |
1834 | 天保 | 5 | 1.- | 大矢野村上村儀八郎という者が、同村の格好の場所に疱瘡隔離療養所を設置する。 入所すれば、万端を請け負い養生させる仕組みで、郡中各村より懸念無く病人を遣わすことを会所詰大庄屋へ再々申し入れる。 ※入所に際しての取り決めはきめ細やかに決められているが省略。 |
1834 | 天保 | 5 | 2.- | 大江村、福連木村に疱瘡人少々発生。 |
1834 | 天保 | 5 | 3.- | 崎津村で疱瘡流行。村方極難。 |
1834 | 天保 | 5 | 4.- | この月下旬より古江村(現天草市河浦町)で疱瘡流行、村大難。 |
1834 | 天保 | 5 | 7.- | 大矢野三ヶ村に疱瘡流行。 |
1834 | 天保 | 5 | 11.- | 一町田村一向宗安養寺の住職、疱瘡を患う。 |
1834 | 天保 | 5 | 12.12 | 当春に予定の宗門改め廻村が疱瘡流行のため、延期されていた村の踏絵御用のため、詰役の2人が東西に分かれこの日出発。各々泊り5日を重ね一巡する。 |
1837 | 天保 | 8 | 3.2 | 上津深江村(現天草郡苓北町)で疱瘡人出る。同村庄屋山川麟八も患う。この夜、看病に母が付き添い、その他医師とも4、5人連れて山小屋に入る。 |
1837 | 天保 | 8 | 3.27 | 上津深江村役座門明け、山病人全快祝いの赤飯を配る。 |
1838 | 天保 | 9 | 10.- | 楠浦村で疱瘡流行し、同村内の錦島へ小屋掛けし、病人を収容する。 ※現在、錦島は陸続きだが、当時は離島であった。 |
1838 | 天保 | 9 | 11.- | 錦島へ病人の隔離病棟建設のため、対岸の下浦村船場郷へ伝染し、18人罹病、8人死亡する。 そのため、錦島の隔離病棟を撤去するよう下浦村より楠浦村、並びに組元の本戸組大庄屋に掛け合いを重ねるが一向に埒あかず。 |
1839 | 天保 | 10 | 4.- | 牛深村で疱瘡大流行、村中極難に及ぶ。 |
1839 | 天保 | 10 | 4.- | 錦島病人小屋一件容易に落着に至らず、下浦村百姓金蔵他25名、極難立ち行き難しとして、楠浦村方を相手取り遂に出訴する。 |
1842 | 天保 | 13 | 1.2 | 富岡志岐に疱瘡発生、次第に蔓延する。 |
1842 | 天保 | 13 | 1.25 | 坂瀬川村の医師本郷玄成、役所の許可を得て、上津深江村大田に種痘山を創始し、望みのものに種痘を施す。 ただし、これは大村領で技術を得た医生を招いての上である。 |
1842 | 天保 | 13 | 2.16 | 富岡志岐の疱瘡大流行し、罹病者千人余に上り、死者50余人。 |
1842 | 天保 | 13 | 6.1 | 富岡志岐の疱瘡漸く終息し、本日口開けがある。 |
1849 | 嘉永 | 2 | 7.- | オランダ船、初めて牛痘法をもたらす。 |
1849 | 嘉永 | 2 | 8.14 | 長崎出島の医官モーニケ、自ら長崎市民の小児に牛痘を植えにかかる。 |
1849 | 嘉永 | 2 | 8.16 | 肥前佐賀城主鍋島齋正、牛痘種をオランダ人より購入し、諸子に試みる。 |
1850 | 嘉永 | 3 | 1.28 | この日までに、モーニケが種痘した長崎の小児381名に達する。 |
1850 | 嘉永 | 3 | 2.19 | 先年来上津深江村内に牛痘山を開き、これまで多人数に種痘を施し、好評を得てきていたが、同所差し回しの者であると申し立て、村々を蔭歩いて偽痘を施術する旅医がある。これに対し、会所よりこの他国者を見たならば、早々に追い払うべしとの触れが出回る。 |
1850 | 嘉永 | 3 | 4.1 | 長崎八幡町の医師木下逸雲が種痘巧者であったので、当正月中、日田表へ招聘した。結果は、何れも煩いが軽く、結果は良好であった。 当郡は、山方役江間九左衛門の世話にて、大村より巧者の医師を招き、上津深江村大田山で専ら種痘を施行中であるが、一手には容易に行き届かねていた。そこで大矢野筋の疱瘡流行により、逸雲を日田表より差遣わされた。逸雲は8日から大矢野へ滞在しているので、望みの者は懸念無く同人より種痘を受けるべく布達ある。また伝法希望の医者にも伝授するよう合わせて布達がる。 |
1855 | 安政 | 2 | この春 | 大江、高浜、崎津、今富の4ヶ村に疱瘡流行。 |
1857 | 安政 | 4 | この春 | 大江、高浜、崎津、今富の4ヶ村、疱瘡流行のため絵踏み改めが延期される。 |
1857 | 安政 | 4 | 11.2 | 疱瘡流行のため延期されていた大江組4ヶ村の宗門改め・絵踏みが実施される。 |
1858 | 安政 | 5 | 2.- | 富岡町、志岐村、内田村で疱瘡が流行する。 |
1858 | 安政 | 5 | 6.1 | 志岐村、内田村の疱瘡終息。 |
1862 | 文久 | 2 | 4.5 | 天草郡は前々より疱瘡を嫌う島柄であり、大体に種痘不朽の今でも、煩う者があれば、近国へ出養生に及ばせる仕来りがある。種痘済のため、一応発症しても直ちに全快する者も依然として他出させる風止まず。これは諸雑費莫大になり、何れも難渋するので、以来その家々にて介抱するよう、大庄屋庄屋集会の折り談合評決し、役所の了解を得て郡中に通達する。 |
1863 | 文久 | 3 | 1.- | 佐伊津村で疱瘡大流行。 |
資料 『天草近代年譜』による (W)はウィキペディア |
参考(Web) |
高浜地区振興会・2010/8/20 医師宮田賢育先生~高浜の流行病の歴史 https://hp.amakusa-web.jp/a0591/Diary/Pub/Shosai.aspx?AUNo=5053&KjNo=161 |
天草市HP 下馬刀島 https://www.city.amakusa.kumamoto.jp/kiji0031550/index.html |
東 昇 近世後期天草郡高浜村における疱瘡流行と迫・家への影響 https://researchmap.jp/read0110330/published_papers/36509788 |
天草探見 上原典礼頌徳碑 |
天草探見 宮田賢育(堅毓) |
参考(文献・小説) |
北野典夫 『大和心を人問わば 天草幕末史』 「 近代医学への道-朝陽堂典礼先生のこと」 「 偉大なり 高浜村庄屋上田宜珍」 |
上田宜珍 『天草郡庄屋 上田宜珍日記 文化四年 文化五年』 |
小説 『雪の花』新潮文庫 吉村 昭 天然痘の大流行に立ち向かう町医者・笠原良策。 疫病との闘いに生命を賭けた医師の生涯を描く。【吉村文学・感動の傑作】 |