遠見番所・烽火場  遠見番と山方役


異国船がやってきた

外国船来航事例
 
寛政二年(1790)七月十六日
 琉球船一艘、薩摩へ向かわんとしたが、風不順のため、崎津湊に漂着する。

寛政九年(1797)七月十三日
 英船、下総銚子沖に現れる。

寛政九年年七月十九日
 英船アングリア船、蝦夷地エトロフに現れる。
 
寛政十年(1798)年秋
 米船エリザ号、蘭船と称して長崎へ入津する。

寛政十一年(1799)十月十七日
 米船エリザ号、再び長崎へ入津。ただし、帰帆の折り、暴風の為船隊破損し沈没する。

寛政十一年六月十二日
 オランダ船一艘、富岡白岩崎に漂着する。短艇より上陸を図ったため、急報により、牛深湊番所詰役小林周助が出役してこれに対応、上陸を辞めさせる。
 同船を十五日に長崎へ曳送る。

寛政十一年七月
 唐船漂着の時は、見分の地役員、村役一同、唐船への乗込み禁止を長崎奉行より通達ある。

寛政十一年七月
 抜荷俵物につき、日田郡代羽倉権九郎より触令が回達される。

享和元年(1801)秋
 雇米船マルガレック号が、蘭船と称して長崎へ入津。

享和三年(1803)七月八日
 オランダの雇米船レベッカ号(米人12名、ジャワ人92人乗組)が長崎に入津。目的は通商を求めるため。

享和三年八月
 英人船長の持ち船(乗組員104名)が長崎へ入津。

享和三年九月八日
 英人船長のベンガン号(乗組員84名)が長崎へ入津

文化元年(1804)六月
 バタビヤより二艘のポルトガル船長崎へ入港し、欧州が再び戦乱が起き、かつロシア軍の軍艦二隻が、世界周航の途上日本にも必ず立ち寄るとの風雪を伝える。出島商館長のヅーフがこれを長崎奉行に伝える。

文化元年九月六日
 ロシア使節レザノフが薩摩川内の漂流民を護送して長崎に入港。

主の目的通商を求める事。
このロシア船に対しては、レザノフが病気になったり、大修理をする必要があったりして、幕府から目附遠山金四郎が来埼するなど、対応に苦慮。
結局幕府は、レザノフの要求に応じず、翌年三月十九日、長崎を去る。

文化二年(1805)十月四日
高浜村白州へ4人乗組みの船一艘が打ち上げる。
船頭は以下乗組員は逃亡する。積荷を調べたら、不正の薬種(唐物)があることが分かり、役所に届け出る。

文化三年(1806)
 四月、薩摩へ唐船漂着。長崎へ曳送る。
 この年、崎津村に唐船漂着する。
 この唐船の長崎曳送りに、大江、高浜両村の間で、ちょっとした諍いがある。

文化四年(1807)四月二十三日
 ロシア人がエトロフ島にに侵攻。会所を焼き略奪を行う。
 この事変に対応として、五月、箱館奉行は津軽、南部藩に増兵を命じ、秋田、庄内藩に援兵を出させる。

文化四年四月二十七日
 米ボストン船(乗組員米人26名)が、長崎へ入港する。目的は、用水欠乏による補給のため。

文化四年五月九日
 野母埼沖に異国船らしき船を、野母遠見番所が望見するも、具体的には不明。

文化四年八月十日
 南京船一艘、長崎へ渡来の途中嵐に逢い、銚子に漂着する。
 関係機関、総力を挙げて救助する。


 フェートン号事件

 文化五年(1808)八月十五日、オランダ船と偽って、イギリス船フェートン号が、長崎港に入港した。いわゆるフェートン号事件である。。
 このフェートン号事件は、当所の遠見番・山方役とは関係は薄いが、天草にも多大な影響を与えた事件なので、特別に記してみたい。

 文化五年(1808)八月十五日早朝、異国船が見えるとの報が長崎港に伝えられた。マストにオランダ国旗が掲げられている巨船は、夕方5時頃、港外の神崎に投錨した。
 この異国船をオランダ船とみた出島商館は、大いに喜んだ。というのは、毎年一回来ていたオランダ船が何年も来ていなかったからである。

 これには次のような理由がある。オランダは、1810年、ナポレオンのフランスに征服され属国となっていた。事実上この地球上にオランダ国旗が翻っている地は、日本の出島しかなかった。したがって、オランダから交易船が来ないのは当然である。そして当時イギリスとフランスは戦争状態であった。そこで、イギリスは各地に敵国オランダ船を探していたのである。

 商館にはこの情報が入っていなかったため、何年も船が来ないのを不思議に思っていたし、やっと来航した船を自国の船と誤信したのは、しかたがないことであった。喜んだ商館は、早速書記官2名を出迎えの為遣わした。ところが、異国船は、短艇を降ろしてその書記官を連れ去った。さらに、別の武装した三隻の短艇が、月明かり(この日は満月)で明るい港内をくまなく偵察した。
 翌日、船にはオランダ国旗を降ろし、イギリス国旗を掲げた。
 つまり、この船はオランダ船を偽装したベリュー艦長のイギリス艦、フェートン号であった。 

 フェートン号は、港にオランダ船がいないとみると、出島商館長ゾーフに、人質を盾として、食糧と薪、水の供給を、日本側が応じるように交渉を迫った。もし、応じなければ、武力で長崎を砲撃するとの脅しも掛けた。
 長崎奉行は、このイギリス艦の態度に激怒し、艦に砲撃を加えんとしたが、たまたま長崎守備隊の多くが帰郷しており、戦闘態勢を取ることができなかった。
 長崎守備は、佐賀鍋島藩が当番として勤めていた。大勢の守備隊を駐留するには経費が掛かる。そこで鍋島藩は、これまで平和な長崎であったため、平和ボケし?、大部分の兵を無断で自国へ引き上げていた。本来なら、千名ほどの兵力がわずか百名ほどしか駐留していなかったという。
 そのため、イギリス艦に攻撃を加えようにも、兵力が無く、どうしようもなかった。

 このような、戦おうにも兵力を有しない奉行は、しぶしぶイギリス艦の要求に応じた。
 一応、要求を満たしたイギリス艦は、十七日になり、悠々と長崎を出帆していった。
 この始末は、長崎奉行松平康英の責ではなかったと思うが、康英は国辱をの責めを負い自刃した。勿論、鍋島藩にも家老等数人も責任をとって切腹している。

 ただし、考えようによっては、これが良かったのかもしれない。というのは、もし、日本側が攻撃していたら、当然イギリス艦も砲撃を加える。すると、当時の兵力からして、長崎の港や人々が多大な損害が及んだことが想像できるからだ。
 それは、後年になるが。それなりに砲台を設置したりしていた薩摩、或いは長州がイギリスなどと交戦をしたが、その際は徹底的かつ完全に敗北しているからだ。
 このやむを得なかったとしても、不戦は不戦。現在にも通じるかもしれない。


 天草では

 この事件が天草高浜へ伝わったのは、十七日であった。上田源作(宜珍)に、伝えたのは、諫早の矢上の皿山へ陶石を積んでいっていた源作の使用人であつた。役所からはまだ連絡が入っていなかった。逆に上田から、役所へこの事を連絡している。
 このフェートン号は英船であったが、天草にはロシア(当時はヲロシアと呼ばれていたようだ)艦と誤って伝わり、天草でもその対策(天草に攻めて来るかも)に大慌て。

 以下、上田宜珍庄屋日記に、この事件後の天草の動きを見てみよう  (要約)

八月十七日 晴れ  北風

1、冨岡へ飛脚を出し、御代官様へ次の事を申しあげる。
① 諫早の矢上皿山へ皿石を運んで行った船がも、今晩帰ってきた。その船頭の話によると。
② 昨十六日暁八ツ頃(午前2時)、長崎の神崎へロシア船4艘が船繋りした。
③ 江戸御用の早馬が2疋、矢上宿を明七ツ頃(午前4時頃)通り。
④ 長崎の寺々の鐘が頗る鳴らされ、近郷の寺からも同様に鐘の音が聞こえて来た。その鐘は更に諸方へ早打ち夥しく伝えられていった。
⑤ 諫早より矢上詰の奉行藤田杢右衛門殿が、同所より即刻長崎へ馳せ参じた。
⑥ その後を追って、諫早勢が早馬に乗って通って行った。
⑦ その他、何人もの人数が、早馬で兵器を携えて運んで行った。
  諫早領矢上街道は、昼頃になると、人馬の隙間もないほどであった。
⑧ 矢上への風聞によると、ロシア船が遠眼鏡でも見えないように、霧が立ち上っている頃に、帆影を隠し、不意に現れた。
⑨ その船は何時襲来してくるかも分からない。
⑩ そのため、公儀では、その船を焼き討ちにするつもりとの事である。
⑪ そうなると、長崎から深堀までの茅葺の家は、被害を受けるようだ。
⑫ その時は、老人、子供、女は大村(領)へお預けなるとの事。
⑬ 以上のことは、風聞の為、如何なものかと思うが、異国船入津については、間違いないことと聞き及んでいるので、早速ご注進申上げる。
    八月十七日辰下刻(午前8時過ぎ) 上田源作
  藤本文太夫様
  安藤元兵衛様 (代官)

追伸

 以上の内容が事実ならば、直ちに長崎より通達が来ることと思う。その時はその様子をお知らせ下され、下知をお願いします。
 またロシアから襲来がある様子ならば、当郡西筋(天草西海岸)には防備のため、島原、熊本から駆け附けて頂けるかどうか、お伺いします。

2、小田床(現下田南)寿栄丸船頭の幸助が今暁矢上より帰ってきたが、その話でも、前の話と相違ないという事を届ける。

3、御役所より御触書が今日未の刻頃(午後2時頃)、小田床より来る。早速大江へ継ぎ送る。御触書の内容は次の通り。
 ロシア船一艘が長崎戸町御番所沖へ漂着(係留カ)した。類船2艘は行方が分からな
 いという。そのため兼ねて申し触れ置いた通り、洋中を入念に望見し、船は勿論、帆影を見つけたり、風聞があったら、早速役所へ注進すること。

4、問屋中並びに弁指を呼出し、異船を見つけたら早速申し出るように伝える。また西平(地区)へも先刻同じ趣旨の事を連絡する。

八月十八日 晴天 北風
 1、代官より返書が、村継ぎで今朝来る。
  ① ロシア船漂着の件は、今だはっきりと分かっていない
  ② 富岡町年寄より風聞が届けられたので、村々へ触れを出す。島原へも飛船を遣わし、どのようになっているか、問い合わせている。
  ③ 防備の準備についても分からない。分かり次第連絡する。

 2、荒尾峠に遠見の茂八を遣わし、異国船が見えた場合は、西平より早速知らせるよう申し附ける。
   今日暮れごろまで何も見えないことを知らせ来る。
 3、酉の刻、会所詰の中原新吾(久玉村大庄屋)殿より、ロシア船一件について、高浜、魚貫両村宛てに触れが来る。

 4、魚貫村へ酉下刻、当村より飛脚両人遣わす。 
   大江組各村へも同触れを出す。
  富岡飛脚は会所へ泊まり、返書を

 宜珍へこの異国船到来を、最初に伝えたのは、身内の船頭であった。ただし、なぜかロシア艦であると、誤って伝えられた。

 役所から正確な情報ではなかったが、一応連絡があったのは、未の刻(午後2時)頃。

 それには、鎖国状態の中で、当時の日本人は、外国の情勢にはある意味全くと言っていいほど分からず、したがって、イギリスもロシアも区別が付かなかったものといえるのではないか。異国船といえば、先のレザノフの例や、エトロフ襲撃のこともあり、異国船といえば、ロシアとの先入観があり、かつ恐怖を持っていたようだ。
 つまり、天草も襲われるかもしれないと。

 富岡役所では、一同愕然として、富岡役所警護のため、島原藩へ出兵を求めた・
 島原藩は、勘定奉行、大横目、物頭の他、侍、足軽等先手として70余名を天草へ派遣する手はずを整えたが、この艦が去ったことが分かり、出兵はしなかった。

 しかし、富岡白岩崎遠見場では、翌日十八日にも、遠見番のみならず町役人等も詰め切って、更には陣屋詰め役人を出張り、仮屋を建てるなどして、警戒に当たった。

 十九日になると、高浜村では、ロシア船襲撃に備え、庄屋上田宜珍主導のもと、防備の臨戦態勢を取ることになった。

 八月十九日 晴天 北東風 昼頃より東南風 夕方平波

 1、村中の者を呼出し、この度のオロシヤ一件の対策についてそれぞれ申し附ける。
  ① ヘゴ、小柴の用意  約5、6千荷積もり
    家1軒に附き、10荷、明日中に用意すること。但し貧家は除く。
    これは、島原、熊本より守備隊が来ないうちに、異国船が来た場合、白州から小﨑までの間に焼き立て、煙を見せるための容易である。大竹の筒を拵え、中に水を詰め、火中に投じれば、雷の如き大きな音がするという事である。 
  ② 木綿織(旗) 34本
    内訳(具体的に、名前が書かれている)
     三本 役座
     二本 7宅軒
     一本 17軒
   この理由は、白州から小崎峠、荒尾峠まで積み立てて置き、煙を立てる事により、相手が何事かと、恐れることを見越しての事である。
  ③ 宮旗80本
    内訳 八幡宮50本、、愛宕社12本、諏訪社4本(以下略・)
    他に堂の旗も加えることで、計114本。

  ④ 松の大束 
    八田網のために準備していたものを求める。
    これは、夜な夜な山々へ篝火を立てるために用いる。
    ぞうりわらしんし(藁草履のことか)
    家1軒に4足宛て、今晩中に作ること。約千足見積もり。
  ⑤ モッコ(カゴ)
    家1件に1個宛て。
    約、5、6百の見積もり。
    これは、仮の陣屋がたてられた場合に、その建設に用いるため。
  ⑥ 縄
    家1軒に2形宛て。約百束の積もり。
    目的は、モッコと同じ。
  ⑦ 枯薪
    家1軒に附き馬持ち、1駄相当。明日まで用意の事。
    これは、御陣屋への必要品。
  ⑧ 宿になりうる家数約26軒。ただし、これは、肥後藩からの部隊の陣所が整っていない場合の宿の手配。
    (具体的に役座始め村人の名あり)
  ⑨ 鉄砲撃ち 9人。
    ただし、稲焇用(猪対策用カ)を用意するよう申し附ける。
    具体的に地区名と名前あり。
  ⑩ 宰領方(村役人、伝次平、善三ほか)に召し使われる人数40人(具体的な名前あり)
     はま  14人
     白木  9人
     上河内 4人
     すわ  6人
     内ノ他 7人
  ⑪ 軍役に召し使う人足
     舟手  213人 21組
     岡の手 215人 12組
     合計  428人
  ⑫ 大釜 3つ 網染釜式2、鰹釜1 これは御陣中用
  ⑬ 自身番 浜3組 今晩より始める 旗は渡し済みの筈
  ⑭ 米50俵 手当の事
  ⑮ 万一立ち退きしなければならない場合の人夫手分けを罷り出す事 
    立ち退き場所も決める
      役座へ上河地区民
      八幡宮へ 松下地区民
      会所御高札へ峯内地区
      庵へ  白木地区
    以上の通り決め、それぞれ申し渡す
 2、遠見(荒尾岳)に茂八、利吉の両人、未明より登山
  今日も、洋中に異国船は見えなかった。
 
八月二十日 雨天 南風
 1、御役所よりのお触れが辰の刻頃小田床より継ぎ来る。早速大江へ継ぎ送る。
   内容・オロシア船は去る十七日、長崎湊出帆。申刻頃は申方へ見え隠れとのこと。
 2、西平の源七、仁左衛門両人を呼出し、荒尾峠よりの遠見は、西平地区にて受け持ち、遠見をするよう。また、異船の帆影が見えた場合は、即時申し出るよう、申し附ける。
 3、会所より大江へ飛脚で申し来たという事で、大矢より触書が、未刻過ぎに来る。 
   内容・ロシア一件で、島原、熊本より来陣の場合、その人数に必要な馬をまた藁を村々で用意すること。
  
八月二十一日 晴天 北風
  島原御徒士横目という杉山庄左衛門、小山三郎両氏、この度のロシア一件に附き、牛深まで風聞を調査に立ち寄られたので、昼食を出す。

                    以上《庄屋日記》

 ロシア船来襲に備え、様々な準備をしたが、何事も無くてよかった。

以後の対策など

 島原表より異国船渡来の場合の対策のついて通達

 九月十三日、島原表より、「異国船渡来の節に於ける村々心得方、手当等」について、次のような極書が令達された。
  ① 兼ねて、村民の中より夫役に役立つ人柄を見極め、15人を1組と定め、組に小頭1名、その上に組頭1名と、相当の者を選定しておくこと。
  ② 猟師の人柄を吟味して置き、渡来した(異国船が)村へ急速に鉄砲を持参して駆け附けられるようにしておくこと。これは、猟師に限らず、鉄砲の心得ある者も同様である。
  ③ 各戸に次の品々を常備して置く事。
    草履  3足
    松明  3本
    中縄  2把
    草藁  10把
    枯れ柴薪 10把
  ④ 海に接する村は、第一に村内を守り、万一異国人が上陸したら召し捕え、もし手向かったならば、打ち殺してもいい。その場合に備え、庄屋は帯刀、年寄は脇差、その他百姓も脇差、木刀勝手次第。
  ⑤ 西目筋の村に於いては、村役とも手当の人数を連れ、それぞれに泊まり道具を持たせ、早々と渡来の村へ駆けつける事。ただし、遠方の村は、役所よりの下知を待って行動すること。
  ⑥ 富岡附近に渡来した場合は、志岐組、井手組迄の村役は、早速手当の人数を引き連れて陣屋へ駆けつける事。ただし、二江村は村内を固める事。
  ⑦ 島原より人数を差し向けた時は、富岡鎮導寺を本陣と定め、寿覚院、円光寺、聞法寺を下宿に宛て、総勢をそれぞれ屯所に配置して後、渡来の村へ出張ること。
  ⑧ 注進次第島原より出兵の手筈するが、海上を隔てた場所のため、とりあえず役所詰役の内より、直ちに弓、鉄砲を持参して、現場に急行させるので、その旨心得て置く事。
                        《年譜》

 我々は、現在、欧州と日本の当時の兵力の差を知っているので、このような対策は滑稽とも思えるが、当時としては当たり前の戦闘準備態勢と言えるのだろう。
 現在的に考えると、貧村天草を攻撃・占領しても、何の益も無いはずだが、当時は、そのような情勢は、全くと言っていいほど未知であったことが、よく分かる事例である。
 ただ、幸いであったのは、先進国のロシアやイギリスなどが、日本に対し占領したり、隷属化する意思を持っていなったことである。それは、まだその時点では、イギリスやロシアが、そこまで国力がなかったこともある。そして、日本が長年鎖国をして、欧米とかなりの文明の差があったとはいえ、日本は日本で、尊厳を以てかつそれなりに国力を備えていたこともある。
 中国に対しては申し訳ないが、国力・民力が堕落しきった中国と比べ、日本はそれら外国からの侵略・侵攻を阻止するだけの、国力・民力があったという事である。

 この項と関係ないが、折角だから、歴史を学ぶという事で、拙考を述べてみたい。

 我々は中学校から歴史を学ぶ。
 しかし、その歴史をどう学んでいるのだろうか。
 それは、過去に起きたことを、ただ教条的に学ぶことではないだろうか。年号を覚える。あるいは、表面的に、この事件や事例はこういうものと言ったふうに。
 しかし、それでは歴史を学んだとはいえない。歴史を学ぶという事は、歴史から学ぶという事だ。つまり過去の人間が様々な生き方をしてきたことを、過去の経験として、現在、未来に向けて学ぶことである。その学ぶことなくして、ただ、過去の出来事を単なる知識として学んでも、何にもならない。知識としてではなく、智力として、学ぶ必要がある。
 その意味で、当時の日本や日本人が、外国に対してどう対処したか、また孤立していた日本が、単に自国だけではどうしようもない国際状態の中で、どう対処したか、どう対処すべきであったかを学ぶのが歴史である。それを現在、未来に生かすために。
 では、今日、それらは克服しているかといえば、まだまだ不十分であろう。
 それは、平和に対する問題を見ても明らかだ。
 あの悲惨な2度の世界大戦を始め、数限りない人間同士の殺し合いをしてきたにも関わらず。
 今だ、その愚かさから逃れえていない。
 特に、日本は大戦以後、国際的にもまれな長期間な平和を満喫してきたが、それには、日本が仕掛けた(勿論反論もある)戦争への反省がある。それゆえに、人類史上最悪の虐殺とも言える、原爆をもある意味許している。
 したがって、日本は、その歴史に学び、人間殺戮の象徴とも言える、原爆使用を許してはいけない。かつ、それは、原爆に関わらず、人間が人間を殺しあう、戦闘・戦争そのものを起こしてはいけない。
 そのために、自らの責に於いて起こした戦争への反省と、世界で唯一原爆の被災国であるという、歴史的事実を元に。
 世界平和のために、日本が先頭に立って、力を尽くす責務があると思う・
 だが、現実はどうか。
 その世界平和に向けて、日本は、どう動いているのだろうか。いや、逆に危機的状況へ、加担しているのではないだろうか。
 そこは、歴史を学び、そして歴史を現在、そして未来へ活用することが、今ほど問われていることはないだろう。


 遠見番陣容新たに

文化五年九月十三日
 郡中の遠見番の入れ替えが行われ、陣容を新たにして、各所見張りの強化完璧を期す態勢を取った。
  崎津附 (富岡附)      新井繁太郎
  魚貫﨑附 (崎津附)     大西栄左衛門
  冨岡附 (魚貫附)      本間儀一郎
  富岡附 (富岡附遠見番居小屋)八田栄五郎
  富岡附遠見番居小屋 (新任) 本間


その後の異国船来日等 

文化六年四月二十二日
 長崎港の両番所の台場で、訓練のため、この日と翌々二十四日の両日、石火矢大筒無玉(空砲)で発砲の試験がある。

六月五日
 富岡役所警護として。島原表より、奉行天野弥藤治(鉄砲与力五人付随)、物頭神谷七右衛門(小頭一人、足軽十五人付随)(以下年譜には名前あるが省略)等総勢四十人余着船、直ちに鎮導寺に入る。
 同時に、近習目付青木九郎兵衛…等上下十三人も渡海する。これは西目筋の陣の様子を見分のためで、牛深まで廻村に及ぶ。

六月二〇日
 異国船対策で、役所や屯所の普請を命じられたため、さらに非常の事で大工、大鋸、日雇い等多数雇い入れ、材木類の即事買い入れ等で多額の経費がかかることになった。、また、西目筋の陣場見分一行の休泊、雑用の等の費用も大いにかさむことになった。
 そのため、当時出掛りの大庄屋、庄屋が評議し、臨時に郡割り銭として、30貫目を計上し、急いで納入することを取り決める。

六月
 幕府より、異国船渡来系某準備のために軍用米が給与される。

この年
 バタビア(インドネシアの首都ジャカルタ)のオランダ商会は、オランダ船2艘をしたて、日本に派遣したが、1艘は途中英船に捕獲され、1艘のみ長崎に入津する。
 以来文化十年まで遂に1艘も来航せず、長崎在留のオランダ人は大いに困窮する。
 このため、長崎奉行は始終人を遣わして、その窮状を確認し、援助を行った。

文化八年(1811)五月九日
 ロシア船がエトロフ島シャナ湾に入り、またも北辺を騒がせる。

同年五月二十日
 牛深湊見張番所附普請役木村剛蔵上下8人、この日牛深を発足氏、西目筋より廻村にかかる。

文化十年(1813)六月二十八日
 オランダ船約四年ぶりに入港
 この日九ツ半時、オランダ国旗を掲げた黒船二艘が長崎高鉾島の前に来航。正規の手続きを行う。
 この黒船の甲板上に元出島商館長ワルデナールとカッサのオランダ人を認めた商館長ゾーフは、躍雀してこれを迎えた。
 しかし、彼らの挙動に不信を感じたゾーフは、この不審を問いただすと、
  ① オランダは三年前にフランスに併合された事。
  ② ジャワ島も既にイギリスに占領された事。
  ③ カッサがゾーフに代わって英人のために、出島貿易を計っていること。
  ④ 船はオランダ船でなく、英船である事。
  などが分かった。
  これに対してゾーフは、愕然として驚くも、ワルデナールに事務の引継ぎを求められると。
  これを拒否し、逆にフェートン号事件以来、日本人はいたく英人を恨んでいることを告げ、逆に。
  ①  このオランダ船を偽って入津した事実を、長崎奉行に告げる。
  ② このままゾーフに貿易を営む権限を委託すること。
  ③ 逆に文化六年以来、出島商館が長崎会所への負債、8万269両余を全部償却することを承諾させ。
 ④ 本年度商館の経費1万5093両、さらに彼自身2年分の役得料をも支払わせる。

文化十一年(1814)六月二十三日
 英船シャロット号、再び長崎へ入津。

十二月十八日
 唐船1艘崎津村へ漂着する。

文化十四年(1817)九月二七日
 英船、房州(千葉県)海上に現れる。

十月
 英船、伊豆大島の興に見える。

十一月三日
 オランダ出島商館長ヅーフに、日本政府は銀五十枚の恩賞を送った。
理由は、母国のオランダが亡国となってからも、本国オランダの独立を極東の一孤島に維持し続け、オランダの三色旗をして、絶えず出島の一角に翻し続けたとの功による。
この日、ヅーフはオランダ船フラウ、アハタ号で、長崎を出帆帰国の途についた。
                       《年譜》
文政元年
十二月、難破唐船1艘崎津浦に漂着する。

文政二年(1819)
一月七日、唐船2艘またまた崎津浦に漂着。このため昨年冬の1艘と合わせ3艘となる。

文政三年(1820)
 二月、唐船、薩摩に漂着する。

文政五年(1822)
 十二月六日、唐船一艘、牛深港口に於いて座礁破船する。
 十二月九日よりこの対策が行われ、座礁した唐船を引揚げ、修理を行い、翌年三月一五日、数百艘の曳舟にて、長崎へ送りつける。

文政七年(1824)
 八月八日、島津領内中宝島、白帆の異国船一艘が現れ、英人7人が端艇で上陸するが、言が、翌日数人が端艇2隻にて再上陸。手まねで野牛を所望するが、里人はこれを拒否し、野菜少々を与え帰船させる。
 さらにその翌日には、3隻の端艇で多人数が上陸。方々を徘徊し、海辺へ繋いであった牛1頭を射殺、他に2頭を略奪するのみならず、番所へ鉄砲を打ち付ける。さらに本船から大砲を打ち放し、狼藉に及ぶ。このため在島していた目付吉村久助が英人1人を撃ち取ったため、他の者どもは本船へ逃げ帰り、出帆する。

文政九年(1826)
 十二月、唐船が﨑津村へ漂着する。同月、漂民を長崎へ送る。

天保元年(1830)
 六月、﨑津村に唐船漂着。乗り組みの唐人1人が、船べりを踏み外し、海中に落ち溺死する。溺死した唐人は現地に土葬され、船は修理の上長崎へ曳送られる。

天保二年(1831)
 六月、唐船、薩摩に漂着する。

弘化二年(1845)
 五月一五日、英船、琉球に来て、一七日に去る。
 七月三日、英船サラマング号、長崎に入港。これに薪水を与える。八日に長崎を去る。 

弘化三年(1846)
 四月五日、英船琉球に来て、医師1人その妻子4人を留めて去る。
 四月七日、仏船琉球に来る。
 五月一一日、仏船2艘、琉球に来て、通商を請う。閏五月二二にち、琉球を去る。
 六月七日、仏船三隻、長崎に入港し、漂流人の保護を請う。九日、長崎を去る。
 七月二五日、仏船、また琉球に来る。
 八月二三日、英船3隻、琉球に来て、海陸を測量して去る。

嘉永元年(1848)
 七月二九日、仏船、琉球に来て上陸する。
 この年から、異国船が対馬、壱岐、肥前、日向沿海などを徘徊する。

嘉永二年(1849)
 三月二六日、米鑑ブレブル号が長崎に来て、去年松前に漂着した米人を受け取る。
 四月一日、この米艦渡来につき、警護のため、肥後藩より大筒手外様足軽10人程差遣わす。当艦は五日長崎を去る。
 一一月七日、英船琉球に来る。
 一二月一九日、長崎入港の予定であった唐船1艘が、天草沖にて難破し、大江村須賀牟田へ漂着、岸辺へ乗り上げ、積み荷が散乱する。急報により、富岡陣屋より役人が現場へ急行する。

嘉永五年(1852)
 一月一七日、英船、琉球に来る。

嘉永六年(1853)
 四月一九日、米国水師提督ペルリ、軍艦3隻を率いて琉球に来る。
 四月二一日、米船1隻、相次いで琉球に来る。
 ペルリは、琉球に上陸後、首里王室の国王代理と面接。さらに、小笠原島に赴き、その後再び琉球に帰り、六月三日、浦賀に来て、修好通商を求める。 
 七月一七日、露国使節プチャーチン、軍艦4隻を率いて長崎へ来る。翌日、プチャーチンは長崎奉行に対しも国書を以て、国境を定め、かつ修好を求める。
   

 以下略

このように、弘化年くらいから、イギリス、フランス、ロシア船が日本にたびたび来航し、通商を求めるようになってきた。

 天草に於いては、長崎へ向かう唐船が、﨑津や牛深にたびたび漂着し、その処理に追われている。
 こうした事件があると、遠見番は勿論加勢の山方役もその処理に翻弄された。
 さらに、村人も動員を求められ、たいそうな難儀であった。