歴史目次    遠見番所・烽火場  異国船がやってきた  平野務右衛門成政の碑


地役人  遠見番と山方役


地役人

 江戸時代の天草には、富岡代官所の指揮下に、遠見番と山方役の役人がいた。その役人は、地役人でありかつ幕臣であった。

 代官の下役として、手附や手代がいたが、彼らは代官に附随する身分であった。しかし、彼らは代官と共に身を処する立場にあった。したがって、地元に根を下ろし、地元に精通し、かつ専門職としての役人を配置する必要があった。また、役人の絶対数も少なかった。そのために、地元から採用されたのが、地役人である。

 そこで、幕府が取った政策が、地元から採用し、封建制社会の原則に乗っとった終身制で世襲制による地元役人採用である。
 そしてその地位は、村長的立場にある大庄屋や庄屋の上に立つ必要があった。大庄屋と言えど身分は百姓。対して、地役人は、れっきとした武士、幕臣である。
 そのため、地役人選任、登用に当たっては、幕府も苦労したと思うが、意外に天草は、元武士的身分の家が多かったようである。当時は何よりも、家柄を重視した時代。この地役人も、世襲が原則であるため、個人の能力よりも、家柄が絶対視されていたはずだ。もちろん、そのことに対しての、史料は遺されていないようで、先達の研究にも、筆者が知る限り無い。

 遠見番や山方役の御仁たちが、いかほど活躍したり、苦労したりしたなどのことは、殆ど残されていないようだが、その一部分が見られるのが、山方役、江間新五右衛門の日記である。
 その新五右衛門が二代に渡って、著わした日記が、「江間新五右衛門日記」である。
 江戸時代や記録は、本戸組大庄屋木山家による「木山家文書」や高浜村庄屋 上田宜珍の「庄屋日記」等が残されている。
 これらの日記が、私的な部分もあるとはいえ、やや公式的日記であるのに対して、「江間日記」は、全くの私的日記である。もちろん、公役であったため、その業務についても書かれているが、誰々と酒を飲んで、二日酔いなどと書かれており、私的な日記により近い。
 当時は、そのような私的日記を書くことが、どれほどあったかは不明だが、当時の文書は、ややもすれば、公的なことだけが記されているため、このような私的文書は、貴重なものといえよう。

 それでは、遠見番や山方役は、どのような目的で設置されたのであろうか。一つには、先に述べたように、役人不足を補うため。また役所の代官やその附随する役人が交代しても、行政運営に支障をきたさないようにするため。あるいは、大庄屋・庄屋等の村役人との中間的な位置で、行政をスムースにするためなどにあった。

 それでは具体的に、遠見番や山方役は、どのような役目(役割)をもち、江戸時代を通じて、どのような変遷をしてきたか。以下考察をしてみよう。


遠見番

 天草は鎖国政策をとっていた当時、唯一海外と門戸を開いていた長崎の南部、外洋に接している。したがって、天草は、長崎へ通る外国の通路に当たる。それらの船舶の監視や難破船の救助などを、行う必要があった。つまり海防の要として設置されたのが、遠見番所である。幕府が天草を天領としたのは、この海防に備えてのこともあったのではないかと考えられる。

 遠見番制度は、鈴木重成代官の時、寛永十八年(1641)に設けられた。
 配置と人員は富岡附4名、大江ア附2名、魚貫ア附2名の計8名である。また、崎津村に、唐通詞一人を定めて詰め置いた。

 日田代官兼任支配の享保二年(1717)、崎津、牛深の2か所を増設した。ただし、遠見番定員は変わらず、富岡2名(2名減)、大江1名(1名減)、崎津2名、魚貫ア1名(2名減)、牛深2名の配置である。

 寛文四年(1664)四月から寛文十一年(1672)二月まで、天草は私領となり、戸田忠昌が支配した。私領であるから、天領時代と違って、武士の数も多かったため、遠見番は廃止されたようである。(山方役は未設置)ただし、詳細は不明との事。
 しかし、戸田支配時は長く続かず、また代官専任となり、小川藤左衛門の支配となった。と同時に、遠見番8人は旧に復している。
                      《富岡回顧録》

 管理区域

 先に述べた目的は、遠見番所の設置個所と管轄区域を見ればよく分かる。つまり、ほぼ外洋に接している箇所にしか置かれていない。
    (享保二年、崎津附、牛深附増置後)
 その管轄区域は、次の通りである。
  @ 富岡附  西・大江組下津深江村(天草町下田北)まで。
           東・御領大島(五和町)まで
  A 牛深附  久玉組中
  B ア津附  大江組小田床(天草町下田南)から崎津(河浦町)
           一町田組浦内の一町田、下田、久留迄
  C 大江埼附・魚貫ア附
          唐船漂着の時は、早速いずれにも立会。

   諸廻破船の時は、魚貫埼は魚貫村ばかりに出合い、その他の村へは出会い不要。
   大江埼は、小田床、高浜、大江村までに破船の時出合い、その他には出会い不要。
   富岡、崎津、牛深番人は支配の内はどこにも出会う事。


 遠見番の職掌

 簡潔に遠見番の職掌を記すと、次の通りである。
   @ 南蛮船の来航監視、密貿易の取締り、漂着船の処理
   A 物品売買、並びに船舶、及び商人の出入り取締
   B 難波船の救助
   C 旅船、旅人の入出島の管理
   D 竹木その他商品積み込み船の監理
   E 造船、解船、船舶売船の監理
   F 浦方に関する違法行為の摘発。

 これを詳しく記すと、遠見番設置からずい分後の事になるが、天明三年(1783)に、勘定奉行より細かに、「遠見番御条目」が、定められている。難解だが、意味は理解できなくもないので、興味のある方は読んでみてもらいたい。

  遠見番御条目
  一 公儀御高札之趣相守り、別て唐船抜荷仲買御制禁之旨入念に、若怪敷旅船繋旅人等船
    場致し難見届義有之候はば、押置早速注進可申事
  一 唐船漂着之定、別紙に有之段相守可申事
  一 所之商売物積候廻船、長崎近国へ罷出候節は、庄屋年寄五人組請負証文改之番所に取置、
    庄屋往来にて出船番人見届、勿論往来手形扣帳に記し、押切印形致可相渡、帰帳之節は承届可申、
    長崎へ参候船は船宿より出船之切手を番人方へ相添可申、
    若出船之時分日限遅滞も有之者可遂吟味事
  一 旅船湊へ繋候節は、往来手形見届積荷等も改可申、勿論船頭水主之内又は乗合之者にても一切旅人陸ヘ揚申間敷、
    若飛脚乗合慥成状箱往来等有之者見届通用可申事
  一 他所より参候売買人常々入来候者は、格別宿五人組証文見届可指置、行掛之者又は胡乱者と相見候はゞ立宿為仕間舗事
  一 湊近辺遠掛之旅船有之候はゞ、吟味出船可申附、潮待合之船は格別之事
  一 破損船有之候はゞ、早々浦人指出肝煎可申、難風にて難船見及候はゞ助船を可出、勿論御法相守り差引可申事
  一 郡中より借船を出、何方へか渡海之旅人有之ば相改、船揚候虎之村役人添手形惟に有之候はゞ滞有間舗候。
    若添手形無之候はゞ、其揚候場所へ村送りに戻し可申事
  一 郡中より竹木買積候旅船、山方役人申合船改入念、無運上積之船等無之様に可致、勿論竹木之外商売物於有之は、
    唐物等にて無之哉入念改、
    若胡乱成筋も有之は差留置、役所へ早々注進可申事
  一 造船解船売買之船、役所へ申出差図之上申附義に候間、右之船有之は改可申出事
  一 何事によらず支配之浦方、違犯之義有之は申出可得差図、私之裁許一切停止之事
  一 村方百姓に対し無依枯贔負難澁申間舗、勿論聊音物一切受納申間舗事
    右之條々堅可被相守者也。
       天明三年卯十月     郡方
                      勘定奉行
     天草遠見番人中


山方役

山方役は、延宝元年(1673)、小川藤左衛門の時に置かれた。
配置、および人員は次の通り。
 
 富岡付 5名
 ア津付 5名
 亀川付 5名

山方役の支配村

 冨岡附 富岡町
     志岐組
     井手組
     大江組の内、都呂々、福連木、下津深江
 崎津附 一町田組
     久玉組
     大江組の内、崎津、今富、大江、高浜、小田床
 亀川附 本戸組
     御領組
     栖本組の内、内野河内附の村を除く
     砥岐組の内、宮田、棚底、浦村
 内野河内村 
     大矢野組 
     砥岐組の内、姫浦、二間戸、大道、高戸、御所浦
     栖本組の内、大浦、須子、赤崎


元禄三年(1690)、内野河内に番所を増設。
富岡付6名、ア津付3名、亀川付3名、内野河内付2名、計14名に拡充。
残り1名は、肥前御料林担当・茂木村詰として派遣し、年貢回米の折りには、長崎勤務を兼ねさせた。

元禄六年(1693)、富岡付、内野河内付をそれぞれ1名増員。

明和七年(1770)、西国郡代兼任時代、山方役は、4名に削減。(遠見番8名はそのまま)
その代り、大庄屋(10名)に、山方役の下役を仰せつけた。

役目としては、山林の管理と運上取立てに当たらせるとともに、遠見番の補完、更には天草郡の治安をも任じていた。

山方役の主な職掌

 山方役の主な職掌は次の通りであるが、遠見番は遠見番の仕事、山方役は山方役の仕事といったふうに、独立して役目を果たしていたのではなく、互いに協力し、補完していたようである。
 
 @ 竹木や薪の運上取立
 A 野焼き山焼きの監督
 B 幕府直営林(御林・留山=福連木)の管理
 C 民有林、竹木伐採の取締まり
 D 遠見番管轄地域外の難破船救助
 E 唐蘭船漂着の際、遠見番への支援
 F 管轄内の保安警察事務

 遠見番と同じ時に、山方役にも御条目が出されている。

 山方役御條目
  一 山方竹木薪御運上御定之通、無依枯贔負急度取立可申事
  一 材木前々御定之定寸を以、御運上取立可申事
  一 薪は船検地を以御運上取立、斤目改等前々之通可致事支配之内他所の者薪を調候段、間屋注進申候はゞ罷越改可申候。
    右取立候御運上銀前々之通、両月に壱度宛役所へ持参、役人へ相渡可申事
  一 毎春野焼候義村方より申出候はゞ、前格之通遂吟味、役所へ申出得差図為焼可申事
  一 百姓持林之内にて作事入用之竹木、伐候義願出候はゞ、遂吟味役所へ申出、得差図可申事附り渡世のため交売に伐取候竹木も同前、
    尤御運上取立不抜様可仕事
  一 御林山薮猥休採不申様、折々相廻可申附事附り猥成族有之は相改、役所へ可申出、自分に裁許申附間舗事
  一 破損有之節遠見番人不出合場所へは、前々之通罷出損引可申候。尤代官罷出候間、立会可遂吟味事
  一 支配之村々相廻候節、胡乱成者致徘徊候はゞ、其所へ預置注進可申事
  一 富岡附前格之通御陣屋用事之節は、罷出可相勤事附り近所火事等有之節は火防可申事
  一 唐船漂着之節遠見番人不足之硼は、役所より差図次第加役勤可申事
  一 村方百姓に対し難澁申掛、又は音物一切受納仕間舗事
  一 自分用事に附他所へ参候はゞ、役所断可申出事右之條々堅可被相守者也
            天明三年卯十月    郡方


 遠見番・山方役人員・配置等の変遷

寛永十八年(1641)
 九月、鈴木重成代官任官。
 この年、郡中に地役人採用、遠見番八人を任命し、富岡詰め四人、大江詰二人、魚貫ア詰二人を配置した。
 さらに、富岡白岩崎、大江崎、魚貫崎三ヶ所には、烽火場(下番二名常詰)をも併置し、海防非常の報知用に備え、各遠見番をして管理させる。
 これは長崎と同様。
 崎津村に唐通詞1人を定め詰置く。

万治三年(1660)
 この年、高浜村大野崎に遠見見張所(烽火場併用)を増設する。
 冨岡附遠見番所掛りとし、下番2名を詰めさせ、対岸樺島(長崎市)番所に呼応して、常時海防監視の任に当たらせる。
 もっとも、後の享保五年(1720)、天草郡が島原藩預かり所となった時、烽火場模様替えで、ここは廃止になった。
 下番2人は、富岡に引継ぎ、元袋(富岡)に新設された二番手烽火場詰めに割り当てられた。

延宝元年(1673)
 代官小川藤左衛門、郡中地役人を増員する。
 遠見番は従来8名とし、別に山方役15人を定め新規採用する。
 冨岡附5人、崎津附5人、亀川附5人と、3ヶ所に配置し、専ら山林堂守の管理、運上取り立てに当たらせる。
 この山方運上として、本銀百目に附き二十五匁を買主より徴収し、口銀は百目に三匁宛て、判賃は一貫目に十匁宛とする

延宝元年(1673)
 槍柄木千本、福連木御林より伐出し、大坂へ積み越して、江戸送りとする。
 柄木一本に附き、袖取賃金八分宛て公儀より下附がある。

 元禄二年(1689)、に内野河内に山方番所を増設される。人員の配置は次の通り。
  富岡附   6名
  ア津附   3名
  亀川附   3名
  内野河内附 2名

 残り1名は、肥前御料林担当・茂木村詰として派遣し、年貢回米の折りには、長崎勤務を兼ねさせた。

 ※年譜では元禄三年となっているが、島鏡では元禄二年としている。
 島鏡には、山方役年数並びに場所替えの覚として、次のように記している。

元禄二年(1689)
 服部六左衛門支配15人の処、内野河内番所始まり、山方役2人を配置。
 大矢野組がこの年より支配となった。そのため新たに番所をたて、富岡より1人、崎津附より1人を配置した。
 亀川附1人減、富岡へ1人加えた。翌年亀川附より1人手代を富岡附へ加え、亀川附3人、崎津附き3人、富岡附6人、内野河内附2人とした。

  崎津附    森権兵衛  
           (元禄三年富岡附?異動 元禄十二年隠居願い)
          赤坂四郎右衛門
           (延宝二年富岡附?異動 元禄十二年亀川附へ異動)
          緒方善内
           (父八兵衛?相続 元禄十二年富岡へ異動)
  亀川附    八田織右衛門
           (父吉右衛門?相続)
          小林伝次郎
           (父寿右衛門?相続)
          吉村九郎太
           (父武右衛門?相続)
  内野河内附 村田和右衛門
           (父好右衛門?相続 元禄十二年崎津へ転任)
          岡部勝平次
           (父孫四郎?相続)
  茂木詰    高野三右衛門
           (40年以前より長崎御蔵詰)
     ※富岡附は記載なし
     ※年等がいまいち理解出来ない所がある。

元禄三年(1690)
 内野河内村に山方役を増設する。
 そのために山方役の入れ替えがある。富岡附6人、崎津附3人、亀川附3人、内野河内附2人とする。なお、1名は長崎十善寺役所蔵元詰めに派遣する。

元禄六年(1693)
 今井九右衛門代官、山方役を富岡附、内野河内附をそれぞれ1名増員する。

元禄六年(1693)
 五月、初代八田貞右衛門重賢、地役人に採用され、山方役見習いを命ぜられ、亀川村に居する。
 この年、山方役はこれまで15人であったが、これに2名を加えて、17人とする。
 長崎十善寺役所蔵元詰め1名、富岡附7名、崎津附3人、亀川附3人、内野河内附3人と配置替えを行う。

元禄十一年(1701)
 遠見山方役居小屋の修復規定を制定する。
 屋根は10ヶ年に一度の葺き替え、畳は7ヶ年に一度の表替えとし、諸入用の群役は従前通り。

元禄十二年(1699)
  四月、八田重賢、亀川附山方役拝命、本勤となる。

元禄十四年(1701)
 遠見山方役居小屋の修復規程を制定する。屋根は10ヵ年に一度の葺き替え、畳は7ヵ年に一度の表替えとし、諸入用の郡役は従来通り。

宝永五年(1708)
 遠見番初代、青木清兵衛歿。

宝永七年(1710)
 八田織右衛門重長、初代重賢に次いで、亀川附山方役拝命。

享保二年(1717)
 崎津、牛深の二ヶ所に遠見番所を増設し、従前の三ヶ所と合わせ五ヶ所となす。
 即ち、地役人遠見番の組み替えあり。富岡附2人、大江附1人、崎津附2人、魚貫附き1人、牛深附2人と配置する。

享保九年(1724)
 崎津村通詞二代(玉木)惣右衛門死す。
 跡役を次男武次右衛門が命じられ、三代を継ぐ。

享保十七年(1732)閏五月十一日
 この夜豪雨。山方役新井伝蔵の居小屋へ崖崩れあり倒壊。新井伝蔵十九歳他二名死去。

元文三年(1738)
 地役人遠見番二代青木宇兵衛死去。

寛保三年(1743)二月
 江間新五右衛門地役人となり、山方役を勤める。
 江間の先代迄は、島原藩へ仕えていたが、故あって当代になり録を辞し天草に移り住んでいた。この新五右衛門が天草江間家の始祖。

延享元年(1744)
 牛深附遠見番平野務右衛門成政、故あって職を辞し、習字を童子に教える。
  
延享三年(1746)
 地役人遠見番初代高田與五郎死去。

寛延元年(1748)
 富岡附山方役二代八田織右衛門重長死去。跡を養嗣子織兵衛英信が継ぐ。

宝暦九年(1759)
 地役人遠見番三代丹羽貞右衛門死去。

明和元年(1764)
 十月、長崎の烽火台を廃止する。
 十二月二十九日、地役人遠見番二代新井繁左衛門死去。

明和五年(1768)、
 再び、西国郡代支配となる。

明和五年
 日田表より、郡中村情聞き糺しがあり、遠見番、山方役の実情を報告させる。
 内容は、小屋床反別、空地と年貢地の割合、野菜畑反別、年貢地下務年貢地かの割合。

明和六年(1769)
 遠見番二代高田彦五郎死去。

明和七年(1770)、
 日田郡代揖斐十太夫は山方役17名を4名に削減。遠見番8名はそのまま。
 この山方役の減員となった分を、大庄屋十人に苗字を差許し、山方運上取立ての下改めを命じる。

遠見番配置

  冨岡附   青木幸内    山方役から転任
         大西佐左衛門  留任
  大江附   八田織兵衛   山方役から転任
  魚貫附   緒方喜与助   留任
  崎津附   吉村格之丞   留任
         丹羽清兵衛   山方役から転任
  牛深附   新井合助    留任
         本間伊左衛門  山方役から転任

山方役配置

  冨岡附    江間円作     留任
  崎津附    奥山萩之充   留任
  亀川附    高田丹蔵     留任
  内野河内附 大西為右衛門  留任

  退役の五人は、日田役所の世話にて、他国へ召し抱え。
  元山方役岡崎富左衛門は肥前唐津藩へ召し抱えられる。
                 以上《年譜》

安永元年(1772)
 山方役二代江間円作死去。

安永三年(1774)
 遠見番三代青木幸内死去。

寛政九年(1792)
 百姓相続方仕法骨折りとして、郡中大庄屋、庄屋と共に、山方役、遠見番にも褒美が下される。
 冨岡附山方役江間新五右衛門 二人扶持被下。
 遠見番新井繁兵衛 金一両拝領。

寛政十二年(1800)
 志岐村の漁業権争いが紛糾したため、富岡附遠見番新井繁兵衛が、大矢野組大庄屋と共に仲裁に入る。
 遠見番丹羽清兵衛死去。

享和元年(1801)
 山方役三代高田丹蔵死去。

享和三年(1803)
 富岡附遠見番四代八田惣次照長死去。
 富岡附江間新五右衛門、勤向出精、百姓相続方取扱も行き届き、骨折り格別として、公儀より褒美金五百疋を下賜される。

文化元年(0804)
 富岡附遠見番新井繁兵衛死去。

文化二年(0805)
 大江、崎津、今富3ヶ村にキリシタン存在の調査のため、山方役江間新五右衛門、吟味奉行、大庄屋等と共に、調査、対策に出役する。

潜伏キリシタン発覚対応に山方役江間も加わる

 文化二年、大江、崎津、今富の三ヶ村に、多数のキリシタン信者がいることが発覚し、その対応に、山方役江間新五右衛門も、島原藩の役人や、大庄屋、庄屋とともに、その対策に当たった。このことからも、山方役は警察の役目も持っていたことが分かる。

 この江間氏、文化五年一月には、この「異法所持もの共吟味一件」に骨折あったとして、同務に当たった大庄屋庄屋とともに、褒賞を受けている。
 江間山方役は、白銀七枚であった。高浜村庄屋上田宜珍は、「其身一代大庄屋格申付及び帯刀御免、白銀十枚」を受けている。

文化四年(1807)
 天草西筋4ヶ村の宗門心得違い事件に功有として、大庄屋、庄屋とともに、江間新五右衛門、白銀四枚を被下される。

文化五年(1808)
 城木場村松屋弁蔵と町山口村問屋茂兵衛との論争が、埒が明かないという事で、大庄屋庄屋らと共に、山方役江間新五右衛門仲裁際に入る。 

文化五年九月十三日
 郡中の遠見番の入れ替えが行われ、陣容を新たにして、各所見張りの強化完璧を期す態勢を取った。
   崎津附 (富岡附)         新井繁太郎
   魚貫ア附 (崎津附)        大西栄左衛門
   冨岡附 (魚貫附)         本間儀一郎
   富岡附 (富岡附遠見番居小屋) 八田栄五郎
   富岡附遠見番居小屋 (新任)  本間

郡としての取組み

 島原表からの通達に対して、十月十九日、大庄屋、庄屋の意見を聞くべく、郡会所に於いて集会が行われた。しかし、平和に慣れた村としては、具体的に対策を取るにはなかなかむつかしかったようで、極力守るとのまあまあ決議になった。
 次いで、十二月十五日には、再度会議が行われ、次の決議を見た。
 郡中で手当米八百石を用意することとし、組内の豪農にそれぞれ貯穀を命じ、必要に応じいずれの村にも送り届けるようにする。
 組の貯穀割り当て
   冨岡町  110石
   志岐組   10石
   井手組   60石
   御領組  240石
   本戸組   20石
   栖本組  120石
   大矢野組  55石
   砥岐組   40石
   久玉組   70石
   一町田組  30石
   大江組   45石
  @ 夫役の糧食はこれ以外とし、別にその村々にて用意すること。
  A 肥後藩より出兵の場合は、宿所の賄い方に不足が無いように用意しておくこと。
  B 郡内の船には全て「天草」と焼き印し、有事には直ちに役船として徴発すること。


文化七年(1810)
 牛深附遠見番四代青木要四郎死去。


島抜け探索にも出動

 遠見番、山方役は、現在の警察業務も持っていた。
 天草は、流人の島であったが、本土に近いという地理的条件もあってか、島抜けも多数発生している。その島抜けの探索に、遠見番も山方役も当たっていたことと思える。

次の事例は、天草の流人でなく、隠岐島関係の島抜け荷対して、役所より遠見番、山方役、会所詰大庄屋、に、命じられた業務である。

文化十四年四月二十日
 隠岐に差置きの流人50人程が同国御用船を奪い取り、大挙島抜けした。
 この内30余人は召捕られたが、その他は近国に流浪散在している。
 この島抜け流人は、既に長崎辺りにも入り込んだ様子に付き、天草郡にも入り込んでいるかもしれない
 そのため、遠見番、山方役は心して最寄りを巡回し、胡乱なる旅人等は郡外へ追い立てるべし。
                   《年譜》

文政元年(1818)六月
 魚貫ア遠見番所居小屋破損に付き、同所附大西和源太よりの申し出により、前例通り郡役として、本戸組請持ちで修復される。 


待遇

 武士は食わねど高楊枝、などと言われてもいるが、現実的には誰だって給料は多ければ多い方がいい。
 遠見番は給米七石二人扶持(後十石五人扶持+入用金若干)、山方役は給米十石であった。これが、他の幕臣と比べて多いのか少ないのか、筆者には分からないが、先に記したそれぞれの役目料にしては、少ないと思うがいかがだろうか。

 この給料(扶持米)は、どうやって支給されたのだろうか。
 宜珍の庄屋日記によると、直接指定された村から本人へ現物を渡していたようだ。宜珍は、大江附、崎津附の役人へ渡している。
 「六ノ廿六日 大江ア・崎津附御番人御衆中へ御給米遣ス 大江アへ宰領立会い吉郎次 崎津ヘハ同磯平為蔵船ニて遣ス」とある。
 内容は 、大江ア附きの吉村弥左衛門宛てとして、十石五斗五升を十月廿日から三月廿六日の5回に分け、八石八斗を送り、残り一石七斗五升。
 また、崎津附の緒方、新井氏分(各十石五斗五升)、奧山氏十石をそれぞれ納めている。(上田宜珍庄屋日記 文化六年)
 これらの役人は、遠見番である。先の給米は、発足時の給米で、その後アップした模様だ。但し山方役の奥山氏は十石となっており、変わっていない。

 島鏡には、遠見番、山方役の屋敷も記載されている。23人全ての屋敷が記されているが、ほぼ同じなので、富岡附の別所藤助氏の屋敷間敷きを抜き書きする。

 かき屋 梁間二間 桁行七間 三方下屋 
      屋敷横平五間 長サ二十五間

 2間は3.6m、7間は12.6m。という事は、45.36u。坪数でいえば、13.7坪。案外狭い。
 ただし、屋敷は660u、200坪だから結構広い。
 他の役人は、梁間はほぼ全員が2間だが。桁行は、5間から8間半まで。
 また、野菜畑も付いている。
 冨岡附の場合、遠見山方役合わせて10人分として。
 年貢地が1反3畝強(一人当たり1畝強)
 無年貢地 1反7畝強(1人当たり1.7畝)
 わずかな畑ではある。


牛深湊見張番所新設

 寛政十年(1798)には、牛深に長崎奉行直轄の湊見張番所が作られた。
 これは、従来の遠見番所では対応できない案件に対して、新しい役所を作ったものである。それはすなわち、経済の発展により、湊に出入りする船舶が増え、かつ不正の交易が増えてきたためである。
 これらの対策として、遠見番の増員で可能かとも思われるが、地役人では対処できない所まで、外国船の来航や密貿易などが増えてきたという事であろう。
 現代風に言えば、天草市役所の出先機関では対応できないため、熊本県庁の直属機関を設置する必要があったと言えるか。いや、長崎奉行所は幕府の機関であるので、国家機関の設置ともいえる。
 以下、この湊見張番所について、これらに遠見番がどれだけ関わっていたか、関わっていなかったか、明らかでない。
 邪知を述べれば。
 長崎奉行所直属の湊見張番所、つまり幕府直属の機関と、同じ幕臣とはいえ、天草地役人の富岡代官所の下役では、権威的にずいぶんの違いがあったものと思われる。
 したがって、湊見張番所では、地役人の出張りは許さなかったと言えるとみたが、如何だろうか。
 流石、幕府機関の設置なので、長崎奉行所は当然として、幕府からも度々検分等のため、来島している。
 この湊番所には、長崎岩原詰普請役小林周助、関口祐助の両名が寛政十一年(1799)四月二十二日に赴任している。
 



山方番所跡 大西家
  上天草市松島町内野河内


資料  『天草近代年譜』
     『天草島鏡』
     『高浜村庄屋 上田宜珍日記』
     など