索引へ  遠見番と山方役 異国船がやってきた 


 

遠見番所・烽火場

 通信手段が発達していない時代の通信方法として、一番早いのは光通信、すなわち烽火(のろし)である。
 1981年11月、郷土史研究会が、牛深遠見山から苓北町までのろしを再現したら、60kmの距離をなんと6分で届いたそうだ。
 当時、苓北牛深間には道は無い。したがって馬も使えず、直接伝達する方法は舟しかない。
 手漕ぎの舟でどんなに急いでも・・・・・。
 烽火は超高速の伝達手段だったのだ。
 現在的に言えば、光通信である。
 だがしかし、現在の光ファイバーによる通信と比べると、その品質は天と地ほどの違いがある。

 その烽火の手順を見てみよう。
  異国船を望見したり、その異国船の乗組員が上陸したりしたら、直ちに兼ねて用意していた薪柴に火を付け、烽火をあげる。
  しかし、それが昼間で、かつ晴天で風がなければいいが、天気が悪かったり、風があると期待したような煙はあがらない。
  現在では、煙に色を付ける技術があるが、当時薪柴を燃やしたくらいで、遠くから見ることができる煙を揚げることができたか。
  さらに、その煙が、対地で、認識できたかどうか。
  この烽火が認識できるとしても、対地の見張り番がしっかりと見張っていたか。
  駅伝ではないが、牛深や高浜で挙げた烽火が、直接長崎には届かない。
  つまり、烽火の駅伝が必要である。
  烽火は、当時として、超高速の光通信であるが、その超高速とするには、多くの困難が伴う事が、容易に想像できる。

 それでは、実際にこの烽火が、実用されたのかというと、烽火は1回だけ(文化六年)だったという。それも試し上げ。
 その互いに連絡を取っているにも関わらず、成功とはいえない結果であった。

 《余》このHPの数少ない訪問者(ありがたい)から、この烽火について、指摘を受けた。
 それは、『天草の豪商 石本平兵衛 (河村哲夫著・藤原書店)』に、次のような記述があるという。
 その内容を記すと、「このようなとき、天草郡牛深村の鶴崎沖で中国船が難破した。・・・・村人たちの知らせによって事故を知った遠見番所の役人たちは、直ちに烽火を上げ、富岡役所に急使を派遣した」
 ということで、実際に挙げた烽火は一度というのは誤りではないか、というものである。

 これに対して、この時、牛深(遠見山)から、実際に烽火が挙げられたのが、手元にある資料を見ても、この記述はない。
 実際に挙げられたのか、それとも作者のフィクションか、定かでない。
 挙げたというその確実な史料があると嬉しいのだが。


 さて、現在のように、ボタンを押すと、たちまち火煙が立ち上るという技術はなかった。
 先に述べたように、烽火通信は、大変な困難が伴っていた。
 しかし、当時としては真剣であり、その役を役人がした訳でなく、その役を担ったのは、村人であった。
 自らの直接な暮らしの他に、駆り出された村人の、見張りや設置・維持等も大変だったろう。
 役人や村方の苦労が偲ばれる。


 江戸時代の天草には、地役人だが武士身分の役人として、遠見番と山方役がいた。
 遠見番制度は、鈴木重成の時(寛永18(1641)年)に設けられた。
 富岡付4名、大江ア付2名、魚貫ア付2名の計8名である。
 さらに、日田代官兼任支配時代の享保2(1717)年には、定員8名を据え置いたまま、崎津と牛深に増設された。
 富岡付2名、大江ア付1名、ア津付1名、魚貫ア付1名、牛深付2名である。

 遠見番の職分(大要)
 1. 南蛮船の来航監視、抜荷(密貿易)の取締りと漂着唐蘭船の処理
 2. 難破船の救助
 3. 旅船旅人の入島出島の管理
 3. 造船、解船、売船の監督
 4. 浦方に関する違法行為の摘発

 管理区域
 @ 富岡付---下津深江から御領大島まで
 A 牛深付---中田から魚貫まで
 B ア津付---小田床から一町田、亀浦の浦河内まで
 C 大江付・魚貫ア付---天草西海岸

 寛政10(1798)になると、牛深に、長崎奉行直轄の牛深湊見張番所が設けられた。

 


  
 烽火場増置と試し揚げ

文化六年(1808)一月二十日
 海防非常報知用として、富岡、高浜、魚貫アの三ヶ所に烽火場があって天領期初期より遠見番がこれを管理していた。
 あらかじめ長崎より通知があり、この日長崎港烽火山に烽火の試し揚げがあった。
 ただし、時を移さず野母、樺島より、天草の三ヶ所に移し継ぐ手筈であったが、不首尾に終わる。
                       《年譜》

 これを高浜村庄屋、上田宜珍は、次のように記している。

長崎放火山に於いて、今日申刻、酉刻に烽火試し揚げが為された。
この試し揚げについて富岡より連絡があったので、拙者は、家岳にかけ登り見た所、はっきりとは分からなく、星の光のような火が三度上がった。
                《庄屋日記》(一月二十日)

 これは、烽火を上げることを連絡受けて、注視したため、やっとわかったくらいで、実際の場合(連絡がない場合)は、星光くらいでは、烽火の確認はまず不可能であった。天候によっても、見え方はかなり差がある。
 つまり、村人の苦労は、実践ではほとんど報われなかったことが分かる。ただし、長崎との烽火望見は、天草では高浜でなく、通詞島・口之津間であり、もっとはっきり見えたものと思うが。

 一月の烽火試し揚げが失敗したため、四月に再度試し揚げをしている。
 
四月二日(年譜には一一日となっている)
 先の初度の烽火移し継ぎが失敗したため、この日更に申及び酉刻の2回、長崎港で試し揚げをする予定で、この度もそれぞれ連絡をしていたが、今度は通知遅れのため、遂に実行されず、またまた失敗に終わる。
                      《年譜》

  宜珍は、この件について、次のように記している。
 
四月二日 晴れ曇
 長崎御奉行所より通達がある。
 内容は、先の試し揚げが失敗したので、再度今日二日申上刻、酉上刻に試し揚げを行う。
 もし雨天の場合は、五日、七日に変更する。

 この通知を受けたので、早速荒尾峠に駆け登り、兼ね伐置きしていた枯れ柴に火をつけ、一時ほど焼き立てる。
 この事を飛脚にて、富岡役所へ送る。
  @ 長崎烽火山に於いて、今日申上刻、酉上刻に烽火の試し揚げをする旨の廻し文が、今暁丑上刻頃出されたのが、漸く今日酉中刻頃当村に着いた。
  A そこで、早速荒尾峠へ駆け登り見た所、やっと烽火かと思える火が見えた。
  B もし、通知がなければ、烽火とは気づかない位であった。
  C そこで、兼ねてより同所に伐立てて置いていた、枯れ柴に火を付けて焼き立てた。大体差渡し七尺位、高さ六尺位に積み立て、燃え尽きたら枯れ柴を追加し、凡そ一時ほど焼き続けた。しかし、北東の風が強く、火は西南の方へ吹き下した。そこで試しに油を少々かけたが、火勢は上がらなかったが、貴地(富岡白岩崎?)では見えたかどうか。
  D いずれ、何か台を拵えて、その上で焼き立てたらどうかと思う。
  E 以上、長崎の烽火が荒尾岳で見えた様子を申しあげた。また、ここの烽火が、貴地ではどう見えたか、お伺いする。
     四月二日夜 御役所、安藤元兵衛様
                      《庄屋日記》

 これに対して、三日には早くも、荒尾峠の烽火は、長崎より火勢が強く見えたとの代官からの返書があった。
 見える、見えないは天候や火勢、或いは煙の濃さ等ともに、距離が大きく関係する。そこで、距離を調べてみた。
 長崎烽火山--富岡    25.2q
 長崎烽火山--高浜荒尾岳 42.8q
 冨岡--荒尾岳       9.5q
 この距離の差は大きい。ところで、長崎の烽火場が作られていた山は、現在でも烽火山と言う名前が付けられている。標高は426m。立派な烽火場跡が再建されているという。
 

 遠見番所・烽火場遺跡
 遠見御番所之碑  天草市牛深町通天橋際
 

遠見番所由緒

 遠見番所は江戸時代天草西岸の要地富岡、大江、崎津、鬼貫崎、牛深の五ケ所に特設された天草代官所直属の役所であり、密貿易の取り締まりや難破船の救助、旅船及び旅人の監視或いは治安の維持に当るなど広範な任務を帯び、その役人は少禄ながら天下の直参をもって自ら任じ、村方においては遠見御番人と尊称され、天領治下の天草で特殊な地位を占めていたものである。 
 牛深に初めてそれが置かれたのは享保2年の事で当初は舟津□山の下にあったが、安永6年風害にあい長手へ移転再建された。詰役人は定員2名とされ以時に任地の交代もあったが、明治維新による廃役まで続いたのである。
 当地には任務中亡くなった役人及び家族の墓が遺されていたが先年道路改修の際崩壊していた為此処に合葬して碑を建立し諸霊を弔慰すると共に往年の遠見御番所を永く記念するものである。

                 昭和50年4月5日建立
                 田中昭策書
   


遠見山園地遠見御番所跡及び烽火場跡由来  牛深市遠見山 
    徳川幕府の命によって天草代官鈴木重成見分の上、寛永18年(1641)富岡、古城山、大江崎、西平山、魚貫崎、出崎山(遠見岳)の3カ所に遠見番所が設けられ海上の監視にあたりました。享保2年(1717)には、牛深、銀杏山(遠見山)、高浜、荒尾岳にも遠見番所が設置され異国船の監視や難破船の救助に備えて海面見通しのよい場所に、2間半に9尺の遠見番所を建て日々洋中海面を遠見していました。
 外国船の出没が激しくなった享保5年(1720)には烽火場が設けられ、順に狼煙をあげて長崎奉行所に連絡をとるしくみになっていました。

 環境庁・熊本県
 市指定史跡 遠見番所跡 天草市牛深町遠見山中腹

 徳川時代における天草遠見番所の要となっていた。
 幕府が貿易政策の一つとして、長崎新令(海舶互新令)を発した2年後のことで、享保2年(1717年)に当所と崎津に番所がおかれている。
 当地は在任中なくなった役人や家族の墓が遺されていたが、道路改修策の際崩壊したため、別地(通天橋際)に記念碑を建立してある。

中番所跡

<案内板>

 中番所について

 天草が天領であった(寛永18年〜明治維新)
江戸時代の後期、銀杏山(現遠見山)の頂上に遠
見番所が、中腹には中番所が、そして港には湊見
張御番所が置かれ、この中番所は取り次の役目を
担っていた。
遠見番の主な役目は
 イ 異国船の見張り
 ロ 抜荷の取締り
 ハ 難破及び漂着船の救助
 ニ ナマコ、干しアワビ等の抜け売り防止等であった。
 中番所の規模は二間×二間半の見張り所のほか
 に付属の区画があり約十八坪であった。遺構
 の石組を南側斜面に使用している。




 遠見番所跡  天草市河浦町崎津
  寛永18年、代官鈴木重成は富岡、大江、魚貫の3カ所に遠見番所を設けたが、享保2年西紀1717年代官七郎左衛門は新たに牛深と崎津に増設した。天草西海岸一帯に現われる海賊船・密輸船・難破船などに備えたもので、それ等が発見されるとのろしを上げて各番所間で連絡し合った。最初の崎津在番は緒方、奥山の両氏で、途中吉村、丹波、荒井氏などが交替したこともあった。見張り番所は崎津湾口の突端に有り、のろし台はその山上にあったが現在は空地となっている。 


遠見番所・烽火場  天草市天草町高浜 荒尾岳 


 寛永18年12月(西暦1641年)天草代官鈴木重成は異国船見張りと海岸警備のため、富岡、大江、魚貫崎の三カ所に遠見番所を設置した。大江崎詰所は荒尾岳に設けられ烽火場には常時たい松を用意し対岸椛島番所に呼応し、海防監視の任に当っていた。その後、万治3年(西暦1660年)に富岡付遠見番所として増設された。そして享保5年(西暦1720年)富岡に移されるまで、60年間続き今は当時の烽火場跡が残っている。

烽火の伝達と村方防備

 怪しい異国船が海上8、9里内に近寄る様子を、発見した遠見番は烽火をあげ、なおまた船の様子などを走り下って庄屋(上田家)へ知らせなくてはならなかった。報告を受けた庄屋は、ただちに注進飛脚を富岡陣屋に走らせ富岡陣屋においても注進次第天草預かり島原藩より出兵の手筈のため次々と烽火をあげて行くが海上隔たりの場所のため富岡陣屋詰の武士がただちに弓、鉄砲持参の上現場へ急行するものである。
 その間異国船の強行上陸や攻撃を受けた場合は、村方防衛団が庄屋支配のもとに竹槍、なた、鎌などの防具を持参し撃退する態勢もとられていた。
 幸い強行な異国船の上陸は一度もなく、烽火をあげたのも文化6年(1809年)の一回だけである。
 この場所には烽火をあげるため大量のしば、まきが常に用意され富岡や対岸のかば島に火の手が見えるよう心掛ける一方、魚貫崎烽火場の火の手も監視していた。


遠見岳見張番所跡 天草市魚貫町
 
 長崎開港以来、天草近海には諸外国の貿易船が出没した。
 寛永18年(1641年)に当所と高浜、富岡に見張所を置いて長崎代官所へ連絡した。山頂には烽火台跡が見られる。

 天草市指定文化財

 遠見岳見張番所跡

   指定年月日  昭和55年4月1日
   所 有 者   天草市

 天草初代代官鈴木重成は、天草を海防の要所とする公儀の意向を受け、寛永18年(1641)に天草の中でも外洋に面している富岡、大江と、ここ魚貫アの三ケ所に遠見番所を設けました。ここ遠見岳の見張番所には2名の遠見番が詰めており、この役職には地役人があたりました。彼らの主な職務は、南蛮船の来航監視や密貿易の取締り、漂着した外国船の処理などで、異常があった際には、見張り番所に併設された烽火場で烽火を上げて知らせました。今も当時の烽火台跡が残されています。
        平成22年3月 天草市教育委員会