遠見番所・烽火場
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烽火場増置と試し揚げ 文化六年(1808)一月二十日 海防非常報知用として、富岡、高浜、魚貫アの三ヶ所に烽火場があって天領期初期より遠見番がこれを管理していた。 あらかじめ長崎より通知があり、この日長崎港烽火山に烽火の試し揚げがあった。 ただし、時を移さず野母、樺島より、天草の三ヶ所に移し継ぐ手筈であったが、不首尾に終わる。 《年譜》 これを高浜村庄屋、上田宜珍は、次のように記している。 長崎放火山に於いて、今日申刻、酉刻に烽火試し揚げが為された。 この試し揚げについて富岡より連絡があったので、拙者は、家岳にかけ登り見た所、はっきりとは分からなく、星の光のような火が三度上がった。 《庄屋日記》(一月二十日) これは、烽火を上げることを連絡受けて、注視したため、やっとわかったくらいで、実際の場合(連絡がない場合)は、星光くらいでは、烽火の確認はまず不可能であった。天候によっても、見え方はかなり差がある。 つまり、村人の苦労は、実践ではほとんど報われなかったことが分かる。ただし、長崎との烽火望見は、天草では高浜でなく、通詞島・口之津間であり、もっとはっきり見えたものと思うが。 一月の烽火試し揚げが失敗したため、四月に再度試し揚げをしている。 四月二日(年譜には一一日となっている) 先の初度の烽火移し継ぎが失敗したため、この日更に申及び酉刻の2回、長崎港で試し揚げをする予定で、この度もそれぞれ連絡をしていたが、今度は通知遅れのため、遂に実行されず、またまた失敗に終わる。 《年譜》 宜珍は、この件について、次のように記している。 四月二日 晴れ曇 長崎御奉行所より通達がある。 内容は、先の試し揚げが失敗したので、再度今日二日申上刻、酉上刻に試し揚げを行う。 もし雨天の場合は、五日、七日に変更する。 この通知を受けたので、早速荒尾峠に駆け登り、兼ね伐置きしていた枯れ柴に火をつけ、一時ほど焼き立てる。 この事を飛脚にて、富岡役所へ送る。 @ 長崎烽火山に於いて、今日申上刻、酉上刻に烽火の試し揚げをする旨の廻し文が、今暁丑上刻頃出されたのが、漸く今日酉中刻頃当村に着いた。 A そこで、早速荒尾峠へ駆け登り見た所、やっと烽火かと思える火が見えた。 B もし、通知がなければ、烽火とは気づかない位であった。 C そこで、兼ねてより同所に伐立てて置いていた、枯れ柴に火を付けて焼き立てた。大体差渡し七尺位、高さ六尺位に積み立て、燃え尽きたら枯れ柴を追加し、凡そ一時ほど焼き続けた。しかし、北東の風が強く、火は西南の方へ吹き下した。そこで試しに油を少々かけたが、火勢は上がらなかったが、貴地(富岡白岩崎?)では見えたかどうか。 D いずれ、何か台を拵えて、その上で焼き立てたらどうかと思う。 E 以上、長崎の烽火が荒尾岳で見えた様子を申しあげた。また、ここの烽火が、貴地ではどう見えたか、お伺いする。 四月二日夜 御役所、安藤元兵衛様 《庄屋日記》 これに対して、三日には早くも、荒尾峠の烽火は、長崎より火勢が強く見えたとの代官からの返書があった。 見える、見えないは天候や火勢、或いは煙の濃さ等ともに、距離が大きく関係する。そこで、距離を調べてみた。 長崎烽火山--富岡 25.2q 長崎烽火山--高浜荒尾岳 42.8q 冨岡--荒尾岳 9.5q この距離の差は大きい。ところで、長崎の烽火場が作られていた山は、現在でも烽火山と言う名前が付けられている。標高は426m。立派な烽火場跡が再建されているという。 |
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遠見番所・烽火場遺跡 |
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遠見御番所之碑 天草市牛深町通天橋際 | |
遠見番所由緒 遠見番所は江戸時代天草西岸の要地富岡、大江、崎津、鬼貫崎、牛深の五ケ所に特設された天草代官所直属の役所であり、密貿易の取り締まりや難破船の救助、旅船及び旅人の監視或いは治安の維持に当るなど広範な任務を帯び、その役人は少禄ながら天下の直参をもって自ら任じ、村方においては遠見御番人と尊称され、天領治下の天草で特殊な地位を占めていたものである。 牛深に初めてそれが置かれたのは享保2年の事で当初は舟津□山の下にあったが、安永6年風害にあい長手へ移転再建された。詰役人は定員2名とされ以時に任地の交代もあったが、明治維新による廃役まで続いたのである。 当地には任務中亡くなった役人及び家族の墓が遺されていたが先年道路改修の際崩壊していた為此処に合葬して碑を建立し諸霊を弔慰すると共に往年の遠見御番所を永く記念するものである。 昭和50年4月5日建立 田中昭策書 |
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