四季の花 天正の戦い  木山弾正


兜梅    延慶寺苔生園  天草市浜崎町


兜梅

熊本県指定天然記念物兜梅  

昭和57年8月28日指定


 一本の梅の木から縦横に枝が延び、枝張りは東西約11メートル、南北約6メートルある。主幹の樹高は約3メートル、根回りは約2メートルあり、樹齢約500年といわれる。
 主幹は朽ちているが、縦横に走る枝がつぎつぎと先に延びているため、臥龍梅とも称されている。
 一時、枯死寸前であったが、その後の手入れにより、今では見事な一重の白い花を咲かせる。
 兜梅と称されるようになったのは、天正の天草合戦
(天正17年、1589)のとき、本戸城で小西行長、加藤清正連合軍と戦った天草勢の中で、奮戦した騎馬武者の姿をした婦人(加藤清正に討ち取られた木山弾正の妻お京の方)の兜の錣がこの梅の枝にからまり、身動きできず斬られた事に由来する。
  熊本県教育委員会
   
県指定天然記念物兜梅由来 

天正17(1589)1125日、加藤・小西の連合軍に十重二十重と取り囲まれた本戸城は、はや落城の寸前かと見えた。
その時、城門さっと押開いて躍り出た、二三十騎の騎馬武者の一隊があった。その先頭にたっているのは、まぎれもなく豪勇無双を以って鳴り響いた木山弾正その人である。弾正の率いる騎馬武者の一団は、敵陣の中に切り込み当たるを幸い薙倒した。とある梅の木の側に寄った時、梅の小枝に兜の錣をからませ、身動きとれず遂に討ち死にした。首級を挙げて見ると、弾正ではなく、緑の黒髪を流した弾正の奥方お京の方であったと云う。つき従う騎馬武者も皆戦死したが、何れもうら若い娘氏軍であった。数日前、志岐の佛木坂の戦で敵将加藤清正ととの一騎討ちに敗れた夫の弔い合戦にと、夫の鎧兜を身につけね戦国武将の妻の心意気を示したものである。木山弾正は肥後木山の城主で、本戸城主天草種元とは姻戚関係にあるため、木山城落城の後本戸城に合流していたと云われる

 
司馬遼太郎観梅の辞


 柴折戸を押すとすぐ開いた。なかは瀟洒な茶庭で、庭としてはよほど古いものらしく思われた。さらに庭の奥に入ると無数のクリーム色の点がうかんでいた。三千世界に梅の香満ちると云う ことばがあるが、香よりも何よりもこの場の場景は、花の美しさだった。
 樹齢は五百年ほどだという。ぜんたいに低く、苔の丘いっぱいにひろがっている。
 目をこらすと、原の幹は鉄のかたまりのように地にうずくまっているだけである。そこから、いずれも百年は経つかと思われる太い幹が、地の横たわりつつ幾つかの方角に伸び幾頭かの臥竜が動いているようにも見える。
 その臥竜ごとに根がつき、その根のあるところからまた幾つかの小古梅が幹を立て、枝を天に突き出し、あるいわからませている。それらがすべて花をささえている。
 白梅にはチリ紙のように薄っぺらい白さのものが多いが、ここの梅の花は、花弁の肉質があつく、白さに生命が厚っぽく籠っているような感じがする。
 ともかくも、こういう梅の古木も花の色もみたことがなく、おそらく今後も見ることがないのではないかと思われた。

「街道を行く」週刊朝日(昭和55年10月10日号所載)