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天草五人衆と天正の天草合戦

経緯

 豊臣秀吉が全国制覇を成し遂げつつあった頃、天草は五人の土豪が支配していた。
いわゆる天草五人衆である。

 大矢野を中心とした大矢野氏、有明には上津浦氏、栖本の栖本氏、苓北の志岐氏、そして河浦・本渡の天草氏である。

 勢力的には、志岐氏、天草氏が優位に立っていたようだが、彼らの関係は、時に勢力争いを演じながらも姻戚関係を結ぶなど、比較的まとまりを持っていたようだ。

 さて、その頃九州はというと、北の大友、南の島津、西の竜造寺の三氏が割拠をしていた。天草五人衆も、天草で安穏としておられる情勢ではなく、各々、島津や大友、竜造寺氏らの勢力範囲に入り従ってていた。

 やがて、豊臣秀吉が、九州を制覇し、熊本は北半分を加藤清正、南半国を小西行長に配した。天草五人衆は秀吉に服属し本領を安堵されていたが、行長の与力という支配下におかれた。

 天正17年、小西行長は宇土城の普請手伝いを五人衆に命じた。ところが志岐麟泉はこれを拒否他の四氏もこれに同調する。現代的に、普請手伝いというと、要請元が手伝い賃や必要経費を出し、普請を手伝ってくれと解釈し勝ちだが、当時は手伝う方がすべてを担うことであった。

 秀吉には服属するも、行長とは与力の立場で、同格と見ていたのが拒否の原因であったためのようだ。すなわち、戦には参軍するが、私城の修復にまで手伝う必要はない。

 怒った行長、これを秀吉に訴えると、秀吉は直ちに討伐せよと命じる。行長、家臣に兵3千を授け、志岐城を攻撃するも全軍壊滅の大敗を喫す。

そこで行長、隣国の清正に援軍を求め、天草五人衆と行長、清正連合軍の戦いが始まった。これが天正の天草合戦であり、様々なドラマが生まれることになる。

 
 


仏木坂の戦い

 行長はキリシタン大名であったため、キリシタン信者の多い天草衆に同宗のよしみとして比較的穏便に済ませようと考えていたようだが、清正は筋金入りの法華経の信者であり、かつ秀吉がキリシタン禁制を掲げていたため、徹底的に天草勢を征伐する覚悟であった。

 これが木山弾正との仏木坂の戦い、本渡城落城・お京の方討ち死にの悲劇を生んだ。

1013日、行長軍65百、清正軍15百で志岐に押し寄せ志岐城を包囲する。

 ここで登場するのが、木山弾正である。

 本渡城城主、天草種元は志岐城包囲を聞き、本渡より木山弾正に兵5百を河内浦(現河浦)から天草主水に兵7百を授け、志岐に向かわせる。

 木山弾正は名の通り、益城の木山の城主であったが、島津に攻められ落城し、縁故を頼って天草氏に客将として身を寄せていたのである。

 弾正は落城主とはいえ、その名は荒武者として名をとどろかせていた。

 行長、清正の連合軍の包囲に対し、志岐麟泉は戦意を喪失し、これを見た天草主水は河内浦に引き返した。しかし、弾正は歴戦の勇者、おめおめと引き下がるわけにはいかないと、清正と一戦を交える。

 かくして、115日明け方、清正の陣営へ突入、これを突き崩す。しかし、清正軍もさるもの、よく持ちこたえ、混戦乱闘状態となり、仏木坂での一騎打ちとなった。

 この一騎打ちで、弾正敗れ、これを期に形勢は逆転。弾正軍壊滅する。

 11月10日、志岐城は開城し、志岐麟泉は薩摩へ逃れるも、後に、望郷の念やみがたく、大多尾(新和町)までに立ち戻ったところで、病没したという。麟泉は同地の麟遷宮に奉られている。

 ここに志岐氏、天草氏は滅亡し、栖本氏、上津浦氏、大矢野氏は戦わずして小西行長に降伏、天草五人衆の時代は終焉を迎えた。

 
 
 

本渡城落城・お京の方討ち死に

 一方本渡城では、志岐に続いてこちらも攻められるは必定と、河内浦の兵を主力に、弾正の残兵を合わせて、籠城の構えに入った。1120日、加藤、小西に加え、有馬、大村の軍勢が、押し寄せ、21日より総攻撃をかけられた。この多勢の連合軍の前に勝ち目はなく、とうとう城は落ちる。

 この時、城から打って出た一団がいた。木山弾正の夫人お京の方と娘子軍(ろうしぐん)である。もとより娘子軍は甲冑に身を固め、討ち死にする覚悟である。お京の方は弾正の甲冑を身にまとっていたため、連合軍は勇者弾正と思い、誰も近寄るものもなかったが、兜が梅の枝にかかり、兜が脱げ黒髪が露わになったため、女性と分かり、あえなく討ち取られたということだ。

 このとき、お京の方はこの梅の木に対し「花は咲かせど実は生らせまじ」と恨みを残して死んでいったという。この梅の木が有名な延慶寺の「兜梅」である。

 
 古戦場跡
  天正の役 娘子軍奮戦地
 の碑

 この碑は、兜梅とは逆の方向に建てられている。兜梅は本渡城からみて北北東、この碑は南西の方向。
 さて、娘子軍は、どちらの方向に出撃したのか。
ただ、この碑のある地は、本渡城祉(現キリシタン館)との間に急崖がある。
もっとも、回り道をすればいいので、要は、敵軍がどの位置にいたのかが、重要なポイントになるが、今となっては、確かめようもない。

 【参考文献】

  『天正の天草合戦誌』 天草歴史文化遺産の会編 平成元年12月