索引へ  加藤民吉 (ウィキペディア) 2016/01/24更新

瀬戸焼中興の師 加藤民吉  

加藤民吉(かとうたみきち)は「日本史人物事典」山川出版社刊によれば次のように記してある。

 1772.2-〜1824.4.4
 瀬戸焼に磁器を導入して磁祖とされる江戸後期の陶工。
 名は保賢、幼名を松太郎といい、吉左衛門景遠の次男。
 1804年(文化元)肥前国伊万里に赴き、磁器の製法を学び、07年に帰郷し、瀬戸焼に新製の染付磁器の焼造法を伝えた。
 その染付は色沢妍麗
(しきたくけんれい)と評されて人気を博した。

一般に陶器を瀬戸物というように、瀬戸焼は日本の陶器生産の中心であった。
しかし、磁器を産することができず、次第に九州の伊万里焼、有田焼の磁器に追われ、衰微の道をたどっていた。
そこで、民吉が九州に留学し、磁器の製法、染付の手法を学び、その技術を瀬戸焼にもたらすことによって、再び瀬戸焼が復活した。
 簡単に記すと、このようになるであろうか。
 その民吉が、磁器の製法や染付の技法を学んだ一か所が、天草の高浜焼の現場であった。
 磁器の製法は、職人としてその窯場に就けば、学ぶことも可能だろうが、問題は秘伝である染付の技法である。とくに、有田や伊万里は、藩の専売品製造として、他所者に教えるということは、絶対に不可能であった。
そこで民吉がまず入所を試みたのが、天草の高浜焼であった。
幸いなことに、この窯に入所を紹介してくれた人が、地にいた。民吉と同郷の人で、窯の経営者上田宜珍とも懇意であった、東向寺十五世住職、天中和尚である。
 東向寺は、天草四ケ本寺の筆頭として50石の寺領を有する寺であり、天中和尚はその歴代住職でも、名僧の誉れ高い住職であったことも幸いした。
 上田宜珍とて、他国人を受け入れるほどの度量はなかったと思うが、天中和尚の頼みとあれば、仕方がなかったのかもしれない。
その証拠に、高浜焼窯で、修業を積むが、秘法の習得はできなかった。そこで、高浜焼窯を離れ、肥前に移り住み、そこで修業を重ねた。しかし、そこでも秘法の習得はできず、失意のうちに、瀬戸へ帰ることになった。
 そして、最初に受け入れてくれた上田宜珍に別れをつげるため、再度高浜を訪れた。
これが、幸いし、度量広き上田宜珍は、民吉の熱意に打たれ、秘伝を伝えた。
したがって、民吉が瀬戸焼の磁祖であるなら、上田宜珍は瀬戸焼の恩師ともいえよう。

今、上田宜珍への仲介を取った、天中和尚の寺、東向寺に、瀬戸市の手によって、加藤民吉の碑が建立されているが、本来なら、高浜焼の地にこれ以上の碑が建立されることが望ましいと思う。
 これは、天草の一住民としての感想である。







民吉翁の碑
  
天草市本町 東向寺 境内

 瀬戸窯の中興は民吉が東向寺の十五世天中和尚をたずね高浜 佐々の皿山で研さんしたことにはじまる瀬戸市の生んだ天中と民吉の徳をたたえ謝恩の碑を建てる
 1957年の秋
 瀬戸市長 加 藤 章


 <裏面>
 昭和34年10月
  瀬戸市之を建つ
    瀬戸市長   加藤  章
    同市議会議長 加藤 政雄
    建設委員   加藤 政良 加藤 勝野 梅木  初 山内 賢一 
           滝本 知三 安藤政二郎 水野半次郎 島田由之助 
           賀来 勇三 
           愛知県陶磁器工業組合 
           瀬戸商工会議所
           瀬戸輸出陶磁器完成工業組合
           愛知県窯業原料協同組合
    意  匠   加藤 元男
    建  設   大成建設株式会社 
 
※ この碑について、「民吉街道」の著者、加藤庄三は同書に次のように述べている。
 「瀬戸から寄贈した謝恩碑に、大勢の名前があっても、私の名がないことについて、和尚がどういうものですかといった。私は、この人たちは瀬戸の有力者の方々ですといっておいたが、滝本知二の名が知三となっており、滝本の起草した碑文が何時の間にか、趣旨が変えられている。かような「民吉翁の碑」では、東向寺に建てるのは筋違いではあるまいか」と、やや批判的である。
 また碑文に、「高浜 佐々の皿山」とあるが、高浜は現熊本県天草町、佐々は長崎県北松浦郡佐々町である。誤解を生じかねないので、もう少し詳しい説明が欲しいところだ。


 
 


天中民吉邂逅の図
   天草市本町 東向寺
 
 瀬戸窯の中興の祖は 民吉が 東向寺の 十五世天中和尚をたずね 高浜 佐々の皿山で 研さんしたことに はじまる
 瀬戸市の生んだ天中と民吉の 徳をたたえ 謝恩の碑を建てる
 一九五九年の秋 
 瀬戸市長 加藤 章


 文化元年焼物技法習得の使命を担った瀬戸の民吉=
後に加藤性を許さる=は同郷出身の天中和尚=東向寺15世=を頼り天草へ来たる。高浜皿山での修業を手始めに肥前へと渡り更に修業を専らにす。刻苦四霜を経て磁器の制法、絵薬、染付の技法を学びとり初志を完とうして帰郷しこれを伝え広め、再び瀬戸焼の隆盛をみたり。
 瀬戸焼中興の師
    加藤民吉33歳 天中和尚59歳
 

 <裏面>
 建  立 天中民吉邂逅の図碑 制作実行委員会
      瀬戸市 
      瀬戸商工会議所 
      愛知県陶磁器工業協同組合
      愛知県珪砂鉱業協同組合
      瀬戸陶磁器卸商業組合
      瀬戸陶磁器工業協同組合 
 設計施工 大成建設株式会社  平成十二年五月吉日
      上中万五郎画伯の絵を 六代目 加藤民吉写す
      愛知県陶磁器工業協同組合
       理事長 加藤良寛書

 



 
  加藤民吉の像(写真)
   天草市高浜 上田資料館 

 安永元年(1772)〜文政7年(1824)
 尾張瀬戸村(現愛知県瀬戸市)に生まれ、文化元年(1804)磁器の製法を学ぶため九州へ向かい、尾張菱野村出身で、肥後天草(現熊本県天草市)の東向寺住職、天中和尚を頼り、高浜の庄屋であり窯元であった上田源作(源太夫宜珍)の元で修業をしました。その後、佐世保や肥前(現長崎県)で修業を続け、上田源作によって上絵の技術を教えられたといいます。文化4年(1807)帰国した民吉は技術を伝え、瀬戸の染付焼きは盛んになり、民吉は瀬戸焼の磁祖と呼ばれ、その功績をたたえられています。この磁器は民吉の作といわれています。

 この像は、瀬戸市の釜神神社にある。

 
  天中和尚の墓

 天草市本町 東向寺 歴代住職の墓 

 
  上田宜珍の墓

 天草市天草町高浜 

 
   古高浜焼 窯跡

 天草市高浜 皿山

 

加藤民吉関連年譜

 1746 延享3年2月  天中、菱野村に生まれる。 
 1755 宝暦5年10月25日 上田宜珍天草高浜に生まれる。
 1762 宝暦12年  上田宜珍の父、上田傳五右衛門が高浜鷹巣山に皿山を始める。 
 1772 安永元年2月20日 加藤民吉、瀬戸に生まれる。 
 1789 寛政元年11月  上田宜珍、高浜村庄屋とな。皿山経営を引き継ぐ。 
 1800 寛政12年3月  天中、東向寺15世住職となる。 
1804 文化元年3月 瀬戸の加藤民吉来島の件を東向寺天中和尚が上田宜珍に書状を届ける。
1804 文化元年4月 民吉、高浜皿山に入山。
1804 文化元年8月下旬 民吉、高浜皿山での修業に区切りをつけ、肥前有田皿山で修業のため天草を旅立つ。
1807 文化4年5月 民吉が肥前での習業を終えて再び高浜に寄り(4月)、宜珍より秘伝を伝授され天草を出立。
 6月18日瀬戸に帰郷する。
 1808 文化5年5月  民吉、一代限り苗字を許される。 
 1818 文政元年11月 二宮守恒、「染付焼起原」を著す。 
 1824 文化7年7月4日  加藤民吉没。53歳。万岳光天居士。 
 1826 文化9年8月22日  民吉、窯神に合祀される。 
 1937 昭和12年9月  民吉の銅像が建てられる。 
     
     


 参考書
 『天草陶磁焼の歴史研究 -苓州白いダイヤの巧み-』 鶴田文史著 天草民報社刊 
 『民吉街道 -瀬戸の磁祖 加藤民吉の足跡-』 加藤庄三著 東峰書房 
 『天草近代年譜』 松田唯雄著 図書刊行会
 『上田宜珍傳』 角田政治著・発行 
 など