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鎮道寺 苓北町富岡

勝海舟 



 


鎮道寺本堂


 
 鎮道寺縁起に依れば文禄元年(1592)「キリシタン大名で知られる肥後宇土城主小西行長摂津守行長が一向宗鎮西天草総道場を創建し、良規を以って開基とした。」とされている。その後慶長17年(1612)本山(東本願寺)より本尊阿弥陀如来の下附並びに寺号の許可があり、天草総道場向陽山鎮道寺と称して本戸村(現本渡市)にあったものを、領主寺沢志摩守広高のとき郡内総録所を申し渡され、元和2年(1616)御用便宜のため富岡城下の南向筋(みなんけ・新町付近)に移転された。(このとき東本願寺より天草御坊の名称を賜った。)
 寛永14年(1637)に起こった天草島原の乱後は人心の教化につとめ天草十余ケ村門徒教導の地位にあったが、元禄3年(1690)類火にあい全焼、その後元禄14、5年頃現在地に再建された。東本願寺よりの来訪をはじめ文人墨客の訪れが多く、なかでも裏山の庭園と勝海舟の落書きは有名である。安政4年(1857)10月9日長崎海軍伝習所で訓練中の勝麟太郎一行14名は、伝習船観光丸に乗船して富岡に来航本寺に止宿した。この時海舟は御堂の柱に「日本海軍指揮官 勝麟太郎」と書いた。(註=当時彼にそのような肩書きはない。ひたすら海軍誕生に賭した闘志がうかがえて痛快である。)翌、安政5年3月再び来訪し別の柱に

 
 蒸気の御船にのりて再びここ旅に寝せしかば、
 たのまれぬ世をば経れども契りあらば
 ふたたびここに月を見るかな 
      日本海軍指揮官 勝麟太郎


と書いた。はじめの落書きは柱取替えの際切り取って本寺に保存してあり再訪のときの落書きは今もそのまま残っている。墨痕淡くかすかにその跡がみられ時代の変遷が偲ばれる。






 
勝海舟来訪記念碑

 勝海舟の落書を刻んだ石碑。
 落書は柱に墨で書かれているが、消失をおそれた住職がこれを写し、碑を建てたという。しかし、この碑も苔むして読み取れなくなっている。
 石碑の拓本 富岡港のターミナル展示室にて撮影させていただきました。






復元された
 富岡城
の勝海舟像

 右は頼山陽


この隣には、
 鈴木重成
 鈴木正三
  の像もある。























勝海舟のアップ


















像の説明文