芳證寺   長岡興就   正倫舎   鈴木重成  


細川興秋  とその子孫


    悲運の生涯と天草

     

  初 め に

 細川興秋とはいかなる人物か。
 細川といえば、加藤家の跡を受けて、肥後熊本五十四万石の国主であることは、熊本の人なら誰でも知っている。熊本といえば、加藤か細川かというくらいに。
 だが、興秋は?と首をかしげる人も多いだろう。 
 興秋は、肥後細川家二代、細川忠興の二男として生まれた。
 細川家は、三代忠利の時代に、加藤家に替り、熊本藩の国主となった。
 興秋は、その忠利の兄に当る。
 歴史が順当に回転していたなら、当然初代熊本藩主となってもおかしくない立場であった。
 しかし、歴史はいたずらをする。
 ちょっとの手違い、いや大局の動きといおうか、細川の家督は弟忠利のものとなる。
 その兄、興秋は、時あたかも豊臣と徳川の天下争いに、身を投じるも、結局敗者となった。興秋は一転隠者の身を強いられることになった。
 その落ち着いた先が、わが西海の辺地、天草であるから歴史は面白い。
 あえて断りを言えば、落ち行く先ではなく、落ち着く先であるという事。
 これは、平家の時代から言われたことである。
 とはいえ、興秋が、逃れた先の天草を、落ちのびた先と感じたか、落ち着いた先かは、分からない。筆者的には、落ち着いた先と考えたいが。
 戦国・戦乱の中で、細川は戦いに明け暮れた。その流れに興秋も当然の如く身を置いた。
 いつ、いかなるところで生涯を終えることになるか。現代の我々が想像すらできない極限も多々あったろう。
 その最大の局面は、大坂の陣に、細川一族と袂を分かち、豊臣に付いたことだ。
 敗者に当時の世間は情け容赦ない。興秋は歴史から名を消された。
 運命のいたずらか、それまでの人生から一転して、落ち着いた先の天草で、伸び伸びと暮らせることに、満足したかどうかは分からない。
 でも天草では、僧となり、寺を作り、かつて戦いとはいえ、人を殺めたりしたことを悔い、また、母の菩提を弔ったりと、これまでと違った、穏やかな人生を過ごしたと思う。

 後世の我々は、その歴史の闇は、残されたわずかな史料に頼るほかに、知るすべもない。
その史料も、残されているのは、僅かな文書のみで、ビデオを持つ現代からしたら、もどかしい限りである。

 その残された断片的な史料を元に、我々はあーだこーだと喧々諤々の史論を展開する他はない。最も、我々一般人は、いわゆる歴史学者と言われる方々の、研究成果のおこぼれに預かる他はないが。

 さて、興秋が天草に落ち着いたのは、32歳の時。 59歳で死去するまで、27年間を天草で過ごす。 宗専と称したのは、いつからかは不明である。

 興秋は、この天草での27年間をどう過ごしていたのだろうか。彼が残した日記等の記録は見つかっていないようなので、それは全く闇の中である。
 また、細川家の正史といわれる『綿考輯禄』も、真史を記しているとは思えない。つまり、ほとんどの史実は闇の中である。
 その闇にちょっとでも近づこうと思う。
といいながら、少ない史料と共に、どうしても現代的な感覚で、歴史を見るのは仕方のないことだろう。
 
 ただ、言えることは、興秋という人物が、この世に存在したことは確かな史実であるという事だ。
 その事実を元に、真の史実を追及するという事も大事であり。
 また、一方で、大胆な透察力で、歴史を今によみがえらせることも、大切なことであろう。

 つまり、歴史は面白いという事だ。

 という屁理屈で、表に出なかった天草での興秋、いや出られなかったその興秋を、今こそ歴史の表舞台に登場して貰おう。

 細川興秋とは


  天草市五和町御領の芳證寺東側墓地に、三基の小さな無縫塔がある。すぐ横には、御領まちづくり振興会の説明板が立てられている。それによると、この墓は、細川興秋主従の墓であるという。細川興秋とはいかなる人物か。興味あるところである。細川とは、熊本藩の藩主家であるが、それと何か関係があるのか。

 ※無縫塔(むほうとう)は、主に僧侶の墓塔として使われる石塔(仏塔)。塔身が卵形という特徴があり、別に「卵塔」とも呼ばれる。また、墓場のことを「卵塔場」という。

 説明板によると、この墓の主は、熊本藩初代藩主細川忠利の兄である興秋であるとしている。そこで当然、忠利の兄でありながら、なんでこの天草に、埋もれたような小さな墓に眠っているのかという疑問がわく。


 御領まちづくり振興会の案内板には

 
細川興秋主従の墓
 細川興秋(長岡家始祖)は元和元年(1615)大坂城落城後、自害して果てたことにして僧の身となり家臣2名を連れ、薬師如来を奉じて御領に落ちのび、長興寺を建立してこれを守った。この墓は向かって中央が「細川与五郎興秋の墓(碑銘:長興前住泰月大和尚禅師)」、右が「長野幾右衛門家重の墓(碑銘:栄應玄盛庵主)」、左が「渡辺九郎兵衛の墓(碑銘:以心別傳上座)」と言われている。
と記されている。
 



 熊本藩細川家の墓は、二カ所ある。その一つは熊本市の立田自然公園にある泰勝寺細川家菩提寺跡に、もう一つは同じ熊本市の北岡自然公園の妙解寺跡にある。さすが、肥後五十四万石の国主の墓だけに、熊本でも他を圧倒する堂々たる墓である。
 若干説明を加えると。立田の墓地には、熊本藩細川家の初代、藤孝(幽斎)夫妻、二代目忠興(三斎)夫妻の墓が並んで建てられている。忠興の妻は有名なガラシャ夫人である。これらの墓は単なる墓石でなく御霊屋または霊廟と呼ばれる、建屋付の圧倒される墓である。
 また付け加えると、すぐ近くに宮本武蔵の供養塔も建てられている。
 忠利の墓はもう一つの細川家墓地妙解寺跡にある。この妙解寺は忠利の菩提を弔うために建立された寺で、初代忠利以下多くの歴代藩主の墓がある、この忠利の墓も参拝する人を圧倒するような御廟である。

 封建制の世とはいえ、兄でありながら、弟は王道を進み、自らは姓さえ名乗れなかった悲運の将興秋。一方は堂々たる霊廟で、一方は天草の片田舎にひっそりと建てられた小さい墓石塔。
 
 しかも、この天草の興秋の墓は、本当に興秋の墓なのか、という疑問符さえ付いている。
 言われているように、確たるものではない所が、歴史好きな筆者の心をくすぐる。そこで、細川興秋について、知ろうとしたところ、恰好な本があった。それは、戸田敏夫著の『細川一族』という書である。
 この書には、熊本細川家の初期、つまり初代藤孝(幽斎)から二代忠興(三斎)、そして三代の熊本藩初代、忠利まで、細川が時代に奔流されながら、どう生き残りを懸けたかが、よく記されている。
 特に、興秋についても、副題に「細川忠興と長岡与五郎興秋」と付けられているように、興味深く記されている。
 本来なら、本流の流れに逆らったり、外れたりした者は、故意に抹殺されるのが、封建制社会の姿である。したがって、徳川に付き、堂々たる大大名に付いた細川家にとって、豊臣に付いた興秋は、その系図から抹消させられるほどである。勿論、肉親である以上、例え本流に逆らったとはいえ、可愛くないことはない。しかし、封建の世は、そうした肉親の愛を許すほど、寛容な社会ではなかった。
 一説には、細川の家を護るため、興秋を豊臣に送り込んだという説もある。
 当時は、家が何よりも大事とした時代であった。とすれば、細川という家を護るため、忠興が興秋を豊臣に派遣したと言えなくもない。
 事実、大坂の陣当時は、どちらに勝利をもたらすか、その予測は不可能であったという。
 しかし、結果は、徳川の勝利となり、豊臣に加担した興秋は、例え、いくら忠興が擁護しようにも、擁護しきれないほど、徳川の力は強まっていた。
 そのため、大坂の陣で、幸いに生きて逃れた興秋は、隠れざるを得なかった。興秋の待遇を誤れば、細川の家さえどうなるかというほどに、徳川に恐怖を感じていた忠興は、興秋を処罰するほかはなかった。そのため、泣く泣く、興秋に切腹を申し付けた。
 だが、幸いにも、興秋を慕う家来によって、自害をしたことにより、天草という辺地に逃れる事ができた。ひょっとしたら、忠興もこの事を知っていた、或いは忠興の指示があったのかもしれない。
 ただし、逃れた以上は、細川家にとって、これを白日の下にさらすことは、絶対にタブーであった。
 そのため、興秋にも、そのこと充分に言い含めたことであろう。興秋も、そのことを守り、自らが、細川興秋であるとは、口が裂けても言えなかったに違いない。
 やっと、その重たい口を開いたのは、興秋臨終に際してであり、それでも、絶対に細川や長岡の姓を名乗ってはならない言っている。

   家伝に云、宗専様御事、天正十一癸未年御誕生。行年六十歳にて、寛永十九年壬午六月十五日、御病死被成候。御法名、長興寺殿慈徳宗専大居士、葬禅宗長興寺。 本尊薬師如来、寺領高弐石、並境内御證文有リ 尤も芳證寺支配なり。
叉云、宗専様御病気にて、御大切に相見え候時分に被仰候は、我等は細川三斎二男にて候へども、様子有之親より勘気を請け候而、如此世を忍び罷在候ゆえ、当時迄苗字をも名乗不申、共方どもへも何とも不申聞候。
右之通故此以後とても、長岡細川の苗字など、決而名乗不申候様相心得可申候。
又我等平日着用いたし候九曜の紋、又は丸ノ内に二つ引両の紋附け候事も、尚遠慮すべしと堅く被仰聞置候而、御薨去被成候旨申伝候事。(「天草史談7」細川家同族天草長岡家系譜)

 ただし、興秋の子は、御領組の大庄屋に任ぜられている。興秋存命の時である。大庄屋は、基本的に元武士身分であり、かつそれも高禄だった家から選んだという。すれば、大庄屋に任命した鈴木代官は、その出自をとっくに見通していたといえよう。
 しかも、彼が豊臣に組したことも、もちろん知っていたに違いない。
 それは、高浜村庄屋の上田家にも当てはまる。
 
 これ等の書等を元にして筆者なりに、この興味深い人物〝細川興秋〟について、記してみようと思う。
 先に述べた「細川主従の墓」のすぐ近くに、長岡家代々の墓がある。長岡家とは、代々御領組大庄屋を勤めた家であり、特に有名なのは長岡興就である。長岡興就については、後に述べる。
 その天草長岡家こそ、興秋を祖とするという。

 その長岡家墓地に、先の主従の墓とは別に、実は興秋の墓もある。その興秋の墓は、御領組大庄屋九代(細川家七世)長岡五郎左衛門興道が、先祖を偲び建てたものである。台石も含めると高さ2m以上、幅0.5mの堂々たる墓石である。
 建立した年は、興秋が亡くなってから、実に160年後である。これまで長岡を名乗れなかった(名乗らなかった)が、この興道から長岡姓を名乗っている。
 
   
 
  細川興秋の墓

 御領組大庄屋九代長岡興道が建立した興秋の墓
  芳證寺の長岡家墓地にある。
 建立は享和二年(1802)、興秋没して160年後である。
 墓石には、次のように刻まれている。

 正面
  長興寺殿慈徳宗専大居士 
 裏面
  細川君與五郎源興秋入道宗専之墓
 側面
 寛永十九年壬午六月十五日薨 
  享和二年壬戌六月十五日
   七世孫長岡五郎左衛門興道 謹建
 
 肥後細川家

 興秋を語る上で、欠かせないのは肥後細川家とはどういう家なのかを知らねばならない。
 熊本で、細川家を知らぬ者はない。加藤家の跡を受けて、熊本藩主として熊本城に入り、幕末まで熊本藩主として君臨した。
 以後も、現代になるが、その子孫細川護熙氏が、熊本県知事、さらに日本国の首相となったことは記憶に新しい。
 その肥後細川家の祖を辿れば、清和源氏に繋がるというが、「日本史人物辞典」日本広辞典編集委員会編 山川出版社 には、細川氏について、次のように記してある。

 室町幕府の管領、近世の大名家。清和源氏足利氏の氏族。足利義清の孫義季が、三河国額田郡細川郷(愛知県岡崎市)に住み、細川氏を称したのに始まる。その子孫は、足利尊氏の挙兵に従い、軍功をたてて勢力を伸ばした。七代頼之が三代将軍足利義満の後見となり、管領として幕政を主導。以後、嫡家(京兆家)は幕府管領家の一つとなり、摂津・丹波・讃岐・土佐諸国守護を世襲。嫡家を中心に、阿波・備中・淡路・和泉の守護家など庶流数家が連合し、幕府内に有力な地位を占めた。応仁の乱後、嫡家・庶家ともに衰退、滅亡したが、和泉国守護末裔藤孝(幽斎)・忠興(三斎)父子が織田・豊臣両氏に従い、一族を再興。のち徳川氏に属し、肥後熊本城主となり、外様の有力大名として存続し、明治に至る。
 
 堂々たる名家であるが、結局生き残ったのは嫡流・庶流の中で、肥後の細川家のみであった。
 
 その肥後細川家(細川家はのち肥後しかないので、肥後を冠する必要はないが)について、もう少し詳しく見てみたい。
 細川家の初代、藤孝は、はじめ京都の南、山城国長岡郡桂川の西の地に、青龍寺城を構えた。この地名から、細川とは別に長岡姓を用いるようになった。青龍寺城は六千石であったが、天正六年には、丹後宮津・田辺城時代に十二万三千石となる。その後関ヶ原の戦い後は、豊前小倉・中津・杵築城合わせて三十万九千石の大大名となる。熊本藩は五十四万石となる。
 これは、前田家の金沢藩百二十万石を筆頭とした、石高ランキングは6位である。
 
 細川がいかほどにして、これだけの大名となったか。興味あるところである。
 戦国時代末期、勢力が収れんされる過程において、ちょっとした功績や忠節などが、実績よりも大きく作用したこともあろう。
 もちろん、現在の社会では想像もできない、諸処の力学や作用が起きたことは分かる。また、当時は、個人の資質もあるが、それ以上に〝家〟という御大事が優先されてもいた。
 これらが、複合的にうごめいた力学は、今日の我々がなかなか理解できない、ある意味歴史の闇である。
 今日、あまたの歴史学者が、当時の事を研究しているが、いくら遺された文献を精査しても、真に当時の事を再現することは不可能である。

 細川家が、生き残った時代は、長い日本史上でも、まさに激動の時代である。室町幕府に仕え、その後室町幕府の滅亡に際し、如何に家を存続するか。この事に苦心したことも明らかになっている。
 室町幕府に仕えながら、豊臣秀吉が天下を取ると、その軍門に下り、さらに豊臣滅亡の後は、家康に仕える。
 勿論、単純に箇条書き程度で済まされるようなものでなく、如何に当時の人々が、特に〝家〟の存続を図るために、如何に苦労したか、また如何なる行動を取ったか、現在の我々からしたら、いくら当時の史料を突き付けられても、完全に理解することは不可能である。

 そのような情勢の中で、この激難の時代を生き残った、細川は世渡りが上手であったという説もある。
 ただし、実際は、身内にキリシタンや興秋のように敵方に付いた身内もいたこともあり、一つ間違えば、御家断絶にも繋がる危機もあった様である。
 恐らく、御家のため、必死に生き残りを賭けたのであり、世渡りが上手というより、うまくいったという方が適切かもしれない。
 
 
 慶長三年(1598)、豊臣秀吉が死ぬと、徳川家康は着々と天下取りを進めた。羽柴姓を貰っていた細川も、徳川に従うようになる。そこで、忠節を誓うため、江戸へ人質を出すことになった。人質に選ばれたのは、忠興の三男忠利(14歳)であった。
 この忠利、なぜか家康に気に入られたようで、家康は後に、細川家家督まで手を出し、忠利にその家督を継がせるよう要求してくる。
この事が、興秋の運命も大きく変わっていくことになる。
 豊臣か、徳川か、政権をめぐって石田三成と家康間で、駆け引きが繰り広げられ、やがて、天下分け目の戦い(1600年・関が原決戦)が起きた。
 この戦いに豊臣に付くか、徳川に付くか、多くの大名は逡巡した。細川もその一人であった。この戦いは、単なる戦いでなく、御家の存続に係わる戦いであったためである。ただ、豊臣恩顧の多くの大名は、徳川に付いた。それは、豊臣対徳川の戦いでなく、石田対徳川の戦いという理屈を付けて。
 この戦いに、17歳になっていた興秋も参戦、活躍する。
 この興秋の戦いの様子を戸田敏夫氏は次のように記している。ちょっと長くなるが、ハイライトなので引用しよう。

   興秋は、みなよりもぬきんでて馬を敵中へ乗り入れた。興秋の家臣も馬の側を離れないようにつづく。沼や林、高台を駆け回るうち、鹿の角を付けた冑をかぶり、黒革の鎧胸板に南無妙法蓮華経と箔で書いた騎馬武者が、近づく五人を三尺余の太刀で切り伏せているのを見つけ、興秋は鑓を掲げて立ち向かった。この武者は、石田勢の鉄砲頭仙右角左衛門、一に角右衛門といい、仙石越前守秀政に仕えていたとき数度の功名から名字を許され、太刀で鹿の角を切り折るほどの剛の者であった。馬上の立ち向かいから、やがて組み合いとなり、馬より落ちてふたりはしばらく上下にもつれ合っていたが、興秋はついに角左衛門を組み伏せて首を取った。すると、今度は、この興秋目がけて左右から敵が襲いかかり、興秋はこれに太刀を振りかざして渡り合い、追い払った。興秋の家臣窪田五郎、栗津彦左術門らも興秋の側で奮闘する。この興秋の働きは忠隆にも見届けられた。


 
母ガラシャの死

 興秋の母は、ガラシアである。ガラシアは、玉或いは玉子といい、明智光秀の娘であった。明智光秀は、本能寺の変で信長を弑した反逆人であり、そのため玉も、数年間奥丹後に身を潜めていたという。興秋もこの奥丹後で生まれたともいう。
 後に玉は、熱心なキリシタンとなり、興秋も受洗している。勿論、幼少の時であり、本人の意志ではない。成人となった興秋がどれだけキリスト教に帰依していたかは不明である。
 関ヶ原前夜、忠興の妻ガラシアは、大坂の細川屋敷にいた。三成は、大名を仲間に引き入れるため、大坂にいる妻子を人質として、大坂城に入れようと画策した。細川忠興夫人のガラシアもそのひとりであった。しかし、ガラシアはこれを拒み、屋敷で自害した。38歳の若さであった。



  
嫡子が三男忠利になった理由

 忠興には、数人の男子があった。長男は忠隆、二男が興秋、そして三男が初代熊本藩主の忠利である。
 嫡男は勿論長男忠隆と決められていたが、関ヶ原の戦い後廃嫡されている。それは、ガラシアと共に、屋敷に忠敬の夫人もいたが、忠隆夫人は、ガラシアと共に自害せず、脱出したため、という。ただし、それ以前にも、戦いの方法についても、気に喰わない所があった様で、つまり気が合わなかったのかもしれない。
 ただし、後に和解し、知行三千石をもらい、子孫は細川家家臣となっている。
 
 細川は、関ヶ原後、家康から豊前及び豊後2郡を与えられた。三十九万石の堂々たる大名である。
 忠興は、当初中津城を居城としていたが、改修した小倉城に入る。興秋は、中津城を与えられた。
 慶長八年(1603)、家康は征夷大将軍となり、まだ豊臣は存在していたとはいえ、事実上の天下人となった。
 この時点では、興秋が家督を継ぐはずであったことは疑いない。長男忠隆が廃嫡されたため、二男の興秋が継ぐのは、当然である。
 しかし、翌年、忠興は隠居し、家康の圧力で、家康に気に入られていた忠利が細川家を継ぐことになった。そのため興秋は忠利に替り、江戸へ人質として送られることになった。
 当然、興秋には納得がいかないことである。これまで細川のためずいぶん働いてきたのに、忠利は人質としての役目の他は、何の働きもしていない。また、父忠興との間には、何のトラブルも起きていない。
 興秋は随分悩んだことだろう。人質として江戸へ向かうか。それとも逆らって出奔するか。
 忠興も恐らく、家康の求めに応じて、忠利に家督を譲ることに、かなり悩んだことだと思う。そう信じたい。
 興秋は、周囲の要請にも耳を貸さず、なかなか江戸へ出立せず、遂に剃髪して出奔する道を選んだ。このため本来なら、家命に背いた興秋は、切腹をさせられてもおかしく無かったが、そのまま捨て置かれている。



 
大坂の陣

 やがて、豊臣と徳川の決定的な天下争いが起きる。いわゆる大坂冬の陣、夏の陣である。
 当然細川は、徳川の一員として参戦する。しかし、興秋は、出奔以来どうしていたか、よく分からないが、突如大坂方に加わり、大坂城に入る。
 これは、興秋が徳川に反感を持っていたためであろうが、別の意味もあるという。
 それは、家を残すため、肉親互いに分かれて双方に加担するというものである。これは、なにも細川だけでなく、各家でも見られていることである。真田家もその一つである。勿論豊臣が敗北するとはっきり分かっていたら、そういうことはないだろうが、当時としては、どちらが勝ってもおかしくない状況であったという。
 興秋だけでなく、細川からも多くの人々が、大坂に入っている。
 難攻不落といわれた大坂城も、内堀まで埋められては、如何ともしがたく、淀の方も秀頼も自害し、豊臣は完全に滅亡した。
 興秋は、この戦いでも活躍したが、落城と共に辛うじて大坂を脱出し、伏見稲荷の東林院に身を潜めた。やがて、興秋が存命し、潜んでいることが知れ、捕えられた。
 忠興の心中は、興秋を逃したいと思ったが、徳川の手前、断腸の思いで、興秋に切腹を命じた。介錯は松井右近がしたという。
 ただ、興秋の首級は晒されず、墓も存在しないという。それどころか、今となっては、東林院そのものもどこにあったかもしれないという。
 ただ、法名は黄梅院真月宗心と付けられている。

 このあいまいさが、興秋は殺されず、天草に逃れたという説を大いに裏付ける根拠であろう。切腹を装い、天草に逃れることを、忠興も知っていたか、或いは忠興が指示したとも言えなくもない。

別記「家伝」によると、この下りを次のように記している。(要約)
 家伝に曰く。宗専(興秋)は、慶長十年三月江戸へ証人となり、江戸へ向かう途中逐電して浪人となっていたが、秀頼に味方して慶長十九年に大坂に籠城した。両御所(家康及び秀忠)は、興秋の行為を不届きに思っていたが、忠興の無二の忠義によってこれを許すとの上意であった。しかし、忠興はこれを断り、元和元年六月六日、松井右近に仰せつけ、山城国東林院に於いて切腹を申し付けた。宗専は最後の体神妙にして、人々感涙を催せた。
 
 ただし、興秋は無事であった。尾州春日部郡小田井に暫く忍び、それより直ちに天草郡御領村に移った。
 思うに、忠興より松井右近に仰せつけた忠興の意には次のようなことがあった。それは、多田満仲の子に美女丸という者がいた。この美女丸悪行を為したため、興秋の身代わりに首を討った云々。



 
興秋天草に逃れる

 それではなぜ、隠遁先が天草であったのか。疑問が浮かぶ。ここで、小説に登場しても貰おう。それは、『天草の乱秘聞』村上史郎著である。
 登場するのは、興秋(ここでは、泰月となっている)と三宅藤兵衛である。三宅藤兵衛は勿論、富岡城番代の藤兵衛である。
 藤兵衛は、興秋と酒を酌み交わしながら、興秋のこれまでの事について聞いていた。
 「ところで、御領村へはどのようなご縁で参られましたか」
と、改めて泰月に尋ねた。
「されば・・・」
と、泰月は酒盃をおいて、
 「実は、幾久の父親の立家彦之進から、御領村のことについてはいろいろ聞かされていたのだ」
とこれまた意外な事実を打ち明けた。
 幾久とは、興秋が天草にきて妾とした人で、初代御領組大庄尾興季の母である。
 また藤兵衛は、母ガラシャの父明智光秀の甥明智左馬助光春の子である(説)。
 立家彦之進は、唐津寺沢藩の名のある武人で、同藩の重臣関主水の朋輩であった。大坂の陣に、高禄を投げ捨てて大坂方に馳せ参じたが、激戦の中討ち死にした。その彦之進と興秋は、冬の陣の籠城中、彦之進と知合い、ともに戦塵の中で日々を過ごし、しだいに親交を深めていった。二人は様々なことを語り合ったが、その折々、天草御領村の話が出た。朋輩の関主水が、佐伊津城に駐在していたこともあり、彦之進は幾度か天草を訪れ、御領周辺の事を熟知していたのであった。・・・・・と。

小説であるので、真実は如何に、という事だが、何故興秋が御領村を選んだのか、一考にはなろう。

 天草での興秋

 さて、天草に落ち着いた興秋は、どのように暮らしたのだろうか。
 
 興秋は僧となり、泰月あるいは宗専として、長興寺を建立した。
 興秋が天草に来たのは、32歳の時であった。興秋は寛永十九年(1642)59歳で亡くなっているので、天草在住27年。
 この間、僧として暮らした他は、どのようにして過ごしたのか明らかではない。では、暮らし向きはどうであったのだろうか。寺を建立するくらいだから、金銭的に暮らしに困ることはなかったと思われる。
 細川本家は、天草の興秋を全く無視しているようだが、それは建前で、細川から生活の資金はかなり出ていたのではなかろうかと思える。
 忠興は、興秋の死去の3年後、83歳で亡くなっているので、興秋に家督を継がせられなかったお詫びとして、終生面倒を見たと信じたい。それが、親子の情である。
 興秋の戒名は「長興寺殿慈徳宗専大居士」

 長興寺は芳證寺と合併し今はない。天草代官鈴木重成は、天草郡の寺社に合計三百石の寺領を与えた。芳證寺は十二石が与えられたが、その内二石は長興寺分となっている。
 重成も、もちろん宗専のことは承知のことで、意気な計らいをしたと思われる。

 旧長興寺は、薬師堂として、芳證寺の東側墓地、長岡家墓地の前付近に、大正時代まで存在していたという。(長興寺住職奥様)。
 現在は、芳證寺の境内に堂宇が建てられている。その中に薬師如来が祀られているが、この薬師如来のいわれが、長興寺由緒として残っている。
 

長興寺薬師堂

扁額
 
 興秋の供をしてきた長野幾右衛門の子孫の長野幸雄氏は興秋の研究をしておられる。
 氏の研究を元に書かれたと思う(筆者推測)のが、長興寺由来書である。
 
 長興寺薬師堂縁起
 長興寺薬師堂は旧来泰月大和尚禅師、栄応玄盛庵主、以心別伝上座御三体の栄域近くにありしが、大正三年(1914)の台風により破損したるを以って、爾来如来尊像を芳證寺境内の衆寮堂に安置しまいらせしを新たにこの地に卜して尊堂を造修し祀るものなり。
 口碑によれば長興寺開山泰月大和尚は細川興秋公、栄応玄盛庵主はその近習長野幾右衛門家重、以心別伝上座は渡辺九郎兵衛のことなりという。
 そもそも興秋公は三斎忠興公の第二子にして、幼きより穎悟聡敏、慶長五年(1600)関ヶ原の役に功あり、同十年弟君忠利公の代りとして質となり江戸に赴く途次脱出し、のち豊臣方に属し大坂城に籠り、ために父君の怒りに触れ、元和元年(1615)落城後死を命ぜられ京洛伏見東林院にて自刃すと史上に伝うるも、実は忠興公並びに松井右近昌永のはからいにて、ひそかに公をして苓州御領の地に遁れ隠棲せしめたるならんか。
 即ち興秋公は股肱ともいうべき長野、渡辺の二氏を伴い、薬師如来三尊を泰持し、途上幾多の刻苦辛酸を経てこの地に到り禅宗長興寺を建立、本尊釈迦如来とともにこれを祀りしと伝わる。これ長興寺薬師堂の由来なり。
 天草の兵乱起きるや、公らは薬師如来を抱きて対岸に難を避けしが、その間尊像をいかに置きかうるも、朝になれば如来はおのずから御領の方位に向かいたまえりとなむ。
 興秋公並びに二氏は終始如来の心を心として衆生を済度し、後日御領組大庄屋及びその協力者として郷村の治安のために献身したまえりという。
 乱後長興寺は芳證寺と合併し今日に及べり。薬師堂創建されてより茲に三百七十に垂んとす。星うつり歳替れども薬師如来尊像恒に渝らざる大慈大悲の温容慈眼もてこの世の推移をみそなおし給う。なおまた三体のみ霊とことはに尊像を護持せらるべし。

  興秋は僧となり、泰月あるいは宗専として、長興寺を建立した。
 興秋が天草に来たのは、32歳の時であった。興秋は寛永十九年(1642)59歳で亡くなっているので、天草在住27年。
 この間、僧として暮らした他は、どのようにして過ごしたのか明らかではない。では、暮らし向きはどうであったのだろうか。寺を建立するくらいだから、金銭的に暮らしに困ることはなかったと思われる。
 細川本家は、天草の興秋を全く無視しているようだが、それは建前で、細川から生活の資金はかなり出ていたのではなかろうかと思える。
 忠興は、興秋の死去の3年後、83歳で亡くなっているので、興秋に家督を継がせられなかったお詫びとして、終生面倒を見たと信じたい。それが、親子の情である。
 興秋の戒名は「長興寺殿慈徳宗専大居士」

 長興寺は芳證寺と合併し今はない。天草代官鈴木重成は、天草郡の寺社に合計三百石の寺領を与えた。芳證寺は十二石が与えられたが、その内二石は長興寺分となっている。
 重成も、もちろん宗専のことは承知のことで、意気な計らいをしたと思われる。

 旧長興寺は、観音堂として、芳證寺の東側墓地、長岡家墓地のの前付近に、大正時代まで存在していたという。(長興寺住職奥様)。
 現在は、芳證寺の境内に堂宇が建てられている。その中に薬師如来が祀られているが、この薬師如来のいわれが、長興寺由緒として残っている。

   長興寺由緒
長興寺本尊薬師如来尊像者昆首羯摩之奉彫刻所也、昔年奥州之老尼此尊像を負来奉安置此所、其後某主和尚住此寺・生国奥州之人也、年代茂久事故相知不申候、其後依鬼理志丹一乱、此尊像を地中ニ埋蔵し置、其身薩州遁去、乱後帰来復此尊像を奉安置此所、右良金佛にて為国家之鎮護、依而御證文被下置候、尤当寺境内引続きニ付寺より朝暮守穫仕居申候、右御證文刻文写為上申候

 

 長興寺の薬師如来像

 長興寺の御本尊は、薬師如来である。この薬師如来は、現在も再建された堂宇に安置されている。
 長興寺由緒由緒によると、その昔、奥州の尼さんによって、薬師如来像が持ち来れたようである。昔年となっているので、詳しい年代は不明であるが、如来像が作られたのは、鎌倉時代ではないかと推察されるという。
 興秋は、ここの観音堂にあった薬師如来をもらい受けて、長興寺を創建したのであろうか。

 鈴木重成が与えた芳證寺寺領証文には、長興寺(薬師堂)に関する記述を次のように記している。

 、御領村芳證寺領、本村御領両村之内高拾弐石、此内弐石者 同村薬師領之事
一、寺屋敷、東西弐拾四間、南北三拾壱間、此外薬師堂屋敷、 東西拾弐間、南北拾間、同所廻り畑弐反六畝支配之事

 東西拾弐間、南北拾間とは、東西22m、南北18m、即ち394㎡、119坪とかなり大きい屋敷である。
 ちなみに、芳證寺の寺域は、東西弐拾四間、南北三拾壱間東西24m、南北56m、即ち1344㎡、407坪である。


 
細川興秋関係遺品

 河浦町の元益田村庄屋池田家には、興秋関係と思われる遺品が残されている。
 明治になり庄屋制度が廃止されると、興敏氏は河浦町益田の奥様の実家に引っ越しされた。
 興敏氏死去後、多くの家宝がお世話になった地元の人にお礼として送られたと言われている。その一つが池田家に残されている。
 その遺品とは化粧箱といわれるもので、金箔の細川家の紋、九曜の家紋が入っている。また、九曜の紋と共に、踊り桐の紋も入っている。ネットで調べたが、これと同一の紋は見当たらない。似ている紋の踊り桐紋は、豊臣家の家紋であるという。興秋が、大坂に入った礼として、秀頼から賜ったのかも知れない。とすればますます興秋に関係する物といえよう。また、細川が初期のころは、五七の桐という紋を使っていたという。
 池田家の分家には、九曜の紋が入った木製の金庫がある。
 これらが、天草に存在することが、興秋が天草に在ったという証拠でもあろう。
 九曜の紋はもともと中央の円に、周りの小円がぴったりついて囲んでいた。ところが、延享四年(1747)、江戸城で藩主宗孝が、旗本の板倉勝該に切りつけられて死去した。これは、板倉が紋を見誤って人違いで刃傷に及んだという。そのためこれ以後、離れ九曜と言われる、中央の円と周りの小円を離した紋に変えたという。
 

九曜の紋入り化粧箱 (河浦町・池田裕之氏所蔵)

 
 
九曜の紋入り金庫 (河浦町・池田幸江氏所蔵)
 

化粧箱に九曜の紋と共に描かれている踊り桐紋
 
 その後の興秋 一説


 興秋が、大坂の陣後、時を置かず天草に来て、天草を動かなかったというのが、本書の説であるが、異説もある。
 それは群馬県甘楽町造石に残されている「長岡今朝吉所蔵文書」である。これによると。
 天草に隠遁していた興秋は、祖父藤孝幽齋の、足利義輝の供養のため、地蔵尊の建立して欲しいという遺言を実行するため、家臣一人を連れて、候補地探しに出た。
 足利義輝(1536-1565)とは、室町幕府十三代将軍である。細川晴元らに擁立され、11歳で将軍職を譲られ、父義清の補佐を受ける。後、細川氏綱と結んだため晴元から京都を追われる。翌年講話したが、晴元が三好長慶に敗れると近江国坂本へのがれ、義清没後、朽木に戻る。五八年六角義賢の尽力で長慶と和して京都に帰還。交戦中の戦国大名間に和議を勧めるなど将軍権威の回復に努めた。しかし長慶没後に実権を握った松永久秀や三好三人衆に居館を襲撃され、奮戦の後自害。(日本史人物辞典)
 ちなみに、藤孝は義輝の2歳上であり、義輝は29歳の若さで亡くなっている。また、藤孝は、義晴れの子とも言われており、事実ならば義輝は藤孝の弟に当たる。

 実は、これ以前、興秋が江戸へ人質として登る途中に出奔したのち、最初の旅に出ているが、戦雲ただならぬことになったため、断念していた。
 二度目の旅で、甘楽に来た時、並々ならぬ霊感を感じ、この地に死蔵尊を建立したという。
 建立に当たって、天草で生まれた忠太夫と何人かの家来を呼んで、建立に当たらせた。忠太夫は何者か不明。地蔵尊は、元和九年(1623)に完成した。大坂の陣後8年後である。地蔵尊の肩の部分に建立年月日、建立者長岡大学(興秋)の名。上頭部には細川家(足利家)の紋「日月」と「丸に二」。肩部には公家を表す「桐紋」。膝部には「義輝」。腹部には「幽齋入道」。日の紋の中には「儀」が入っている。さらに付随仏として、石像宝塔一基、石灯篭二基が奉納された。
 完成後、開眼供養祭が挙行されて、足利義輝とその一味家臣などの148体の追善供養が行われた。
 この後、興秋は息子の忠太夫と家臣を残して、飄然として旅に出た。・・・・云々。なお、甘楽造石地区には、15件の長岡姓の家があるという。
 ただ、疑問も多い。息子の忠太夫とは誰か。天草で生まれた興季とすれば、興季が天草に来てすぐに生まれたとしても、8歳に過ぎない。8歳の子をわざわざ天草から呼び寄せる必要性を感じない。
  (天草歴史文化遺産の会・歴史探訪)資料より
 
   
 

細川興秋関連年譜


 ※お断り 年齢は当時は数え、現在は満、さらに生年等がはっきりしていないこともあり、参考程度にしていただきたい。
 また史料が完全でないため正誤もあることをお断りする。

1534 天文 三年 四月二十五日 細川藤孝(幽斎・興秋の祖父)生まれる(父は12代足利将軍義晴の側近、三淵大和守春員。実父は将軍義晴とも言われる。)
織田信長生まれる
1546 天文十五年 足利義輝13代将軍となる
1549 天文十八年 ザビエルら宣教師が鹿児島に上陸日本に初めてキリスト教を伝える
1552 天文二一年 藤孝(19歳)、従五位下に叙され、兵部大輔に任ぜられる
1554 天文二三年 藤孝の養父細川元常死去・藤孝(21歳)和泉細川家家督相続
藤孝、連歌を学び始める
1558 永禄 元年 藤孝、将軍義輝に従い上洛、山城青龍寺城の城主となる
1562 永禄 五年 この頃、藤孝、沼田氏麝香と結婚
1563 永禄 六年 十一月十三日 細川忠興生まれる
細川玉(ガラシア)、明智光秀の三女として生まれる
1565 永禄 八年 足利義輝、暗殺される
1568 永禄 二年 信長、義昭を報じて上洛、将軍につける。藤孝先鋒を勤める
1573 天正 元年  室町幕府滅亡
藤孝、信長の臣となる。長岡と改姓
1578 天正 六年 忠興、明智光秀の娘玉と婚姻・ともに16歳
1580 天正 八年 丹後平定
藤孝・忠興父子、丹後十二万石を授けられる・宮津に築城
忠隆、忠興の長男として生まれる。母は玉。
1582 天正 十年 本能寺の変、織田信長死去
明智光秀、豊臣秀吉に討たれる
玉(20歳)奥丹後に身を隠す
藤孝、剃髪して幽斎と称し、家督を忠興に譲る
1583 天正十一年 細川興秋(與五郎)、忠興の二男として生まれる・母は玉
1586 天正十四年 忠利、忠興の三男として生まれる・母は玉(異説あり)
1587 天正十五年 豊臣秀吉、宣教師追放令を発す
細川玉、このころ受洗(ドンナ・ガラシア)する・興秋も受洗(ジョアン)・(細川関係では、玉の二人の娘や家臣の興元(忠興の弟)らも受洗)
三月 秀吉九州を平定・忠興参戦
1589 天正十七年 天正の天草合戦。天草五人衆滅び、小西行長の膝下になる
1590 天正十八年  幽斎・忠興、秀吉の小田原攻めに参戦
1591 天正十九年 利休、秀吉の勘気を蒙り切腹・忠興取りなすもかなわず
1592 文禄 元年 文禄の役
細川家からも忠興、興元、松井康之らが朝鮮に渡り、多くの家臣が寒さと過酷な戦いで死傷する
1595 文禄 四年 興秋、細川興元(忠興の弟)の養子になる
秀吉、関白秀次を謀反の疑いで高野山に追放する・秀次はのち自殺・秀次の妻妾も殺される・細川も秀次から黄金100枚を借りていたことなどで、石田三成から、秀次に通じている疑いをかけられる。家康から借金して切り抜ける
1596 慶長 元年 高山右近ら多くのキリシタンが国外へ追放される。
1597 慶長 二年 細川与一郎(忠隆)、秀吉の斡旋で前田利家の七女千代を嫁に迎える
慶長の役
1598 慶長 三年 四月二十日 忠隆、従四位下に叙せられ、秀吉から羽柴姓を許される
八月十三日 豊臣秀吉没・63歳
1599 慶長 四年 閏三月三日 前田利家死去・62歳
家康と三成の対立深まる
天草本出版
1600 慶長 五年 一月二十五日 忠興、忠利(14歳)を江戸へ人質に出す。
家康、忠興に豊後のうち六万石を加増する
家康、上杉景勝討伐・忠隆、興秋(17歳)初陣
三成挙兵
七月十七日 ガラシャ、戦いの前に、石田三成方に人質となるを拒み、大坂玉造の屋敷で自害・38歳
幽斎は、田辺籠城
九月 関ヶ原合戦
細川藤孝、忠隆、三成側に就くことを拒み、東軍で参戦・興秋(17歳)も参戦、首ひとつ取る
戦後、忠隆が廃嫡され、山城北野に閑居、無休と称す。
 ※廃嫡の理由の一つは、ガラシア自害の時、忠隆の妻(前田利家の娘)が一緒に死なずに逃れたためと言われる
細川家、丹後から豊前(プラス豊後二郡)へ国替・三十九万石・中津のち小倉を本拠とする。
1601 慶長 六年 九月 忠興、ガラシアの追悼式を豊前と大坂で行う
十二月 興元(忠興の弟)出奔・興秋との養子縁組解消
1602 慶長 七年       十一月下旬、忠興は中津城から小倉城(改修)へ移る。興秋(19歳)は中津城に入る

小倉 忠興居城
中津 興秋居城
香春 孝之(忠興弟)居城
杵築 松井佐渡守預かり
門司 沼田勘解由預かり
一戸 荒川小兵衛預かり
龍王 幸隆(忠興弟)
岩石 長岡肥後守預かり

   
 細川家の豊前・豊後支配地図  「細川三代」より 
1603 慶長 八年    家康、征夷大将軍
天草は唐津藩寺澤広高の所領となる
1604 慶長 九年 忠興隠居
忠利、家康からの圧力で細川家の家督を継ぐ
1605 慶長 十年 興秋(22歳)、忠利と入替で父の命で江戸へ人質に送られることになるも、興秋剃髪して出奔する。建仁寺の塔頭十如院に入る・その後伏見か淀に潜む?
徳川秀忠、将軍
忠利、従五位下更に従四位下に叙せられる
1606 慶長十一年 細川家重臣、飯岡父子(長岡豊前、肥後)が、忠興から懲罰される
 ※(飯河は、興秋の擁護派であった)
十二月二十五日 忠利、中津城へ入る
1607 慶長十二年 熊本城竣工
1609 慶長十四年 忠利婚姻・妻は秀忠の養女(名目上)
1610 慶長十五年 八月二十日 細川幽斎死去・77歳
1611 慶長十六年 三月二十八日 秀頼二条城で家康と対面・清正秀頼を護衛
興秋婚姻・(十五年説有)妻は氏家宗入の娘
※氏家宗入 氏家元正のこと・美濃三人衆の一人氏家木全の二男。信長、秀吉に仕え、近江国一万五千石、他に代官所五万石を預かる。関が原の戦いでは、西軍に属し、高野山に立ち退き、後に家康から赦免される。慶長四年無役三千石で細川家に仕える
六月二十四日 加藤清正没・50歳
八月六日 興秋に長女鍋が生まれる
1612 慶長十七年 正月二十三日 細川家家老松井佐渡守康之死去 
三月二十一日 徳川幕府キリシタン禁令
1613 慶長十八年  十二月十九日 幕府、切支丹宗門取締令発布・庶民に仏教に帰依させ、宣教師国外追放
忠興これに応じ、国元での禁令を徹底させる 家臣2047人が転宗
1614 慶長十九年 島原・天草はじめ全国でキリシタン弾圧が始まる
大坂冬の陣 忠興にも秀頼から請われるが断る
興秋(31歳)、大坂入城・10騎ほどを従え、総勢25人(推定)
高山右近マニラへ追放
1615 元和 元年 高山右近死去
四月 大坂夏の陣、豊臣氏滅ぶ
細川家は家康軍に加わるも、興秋は大坂方に参陣・活躍する
興秋、大坂落城の後、伏見稲荷の東林院に身を潜め、世情が落ち着くのを待つ
※ 興秋(32歳)、豊臣滅亡に際し天草に逃れ隠棲する・ただし、表向きは、忠興の命で自害の体を繕う。
細川藤孝、家康の命で細川に改姓(復姓)

この自害偽装・天草隠遁について、天草近代年譜は次のように記す。
六月六日 細川忠興の次子長岡與五郎興秋、先に脱走して豊臣秀頼に属す
落城には身を以って遁れ、京師(松井家所領地)稲荷山東林寺に潜む。
徳川氏を憚る父君忠興の強要にて、この日同所に於いて神妙に自刃す-----とは名のみ
その実、説得役松井右近の計らいにて一命を完うし、暫く尾州春日郡小田井村に忍び、後天草に伴われ御領村に隠匿す
扈従の臣長野幾右衛門、渡邊九郎兵衛の両名、何れも同村に居つく
時に興秋年33、隣村佐伊津中村半太夫方に同居の某女(当時18、9歳)を入れて妾となす
すなわち同女、富岡番代関主水の娘という触れ込みなるも、実父は立家彦之進と云える寺沢藩中名だたる士、密かに大坂方に参じ、遂に帰らずなりしまま、唐津を立ち退き主水手頼りに来島、随伴の家従中村半太夫と共に佐伊津村へ仮寓中なりしなり
依って一子與吉を生み、長じて興季と名乗る、之れ天草長岡家の始祖にて、後挙げられ御領組大庄屋となる
時に、興秋32歳
 1616 元和 二年 家康死去
 1619 元和 五年 三月十八日 興元死去・54歳
十月十五日 キリシタンを守り続けた細川家重臣加賀山隼人切腹を命じられ、殉教
忠利に嫡子光尚(2代熊本藩主)生まれる
1620 元和 六年  忠興病む。隠居して三斎と称す
忠利は藩主として小倉城に入る
1621 元和 七年  三宅藤兵衛(興秋の従兄弟)、富岡城番代となる。
1623 元和 九年 家光、将軍となる
幕府、大坂牢人の召抱えを許す
1625 寛永 二年 熊本地震・熊本城被害
1629 寛永 六年 興秋の長女鍋、熊本藩士の南条大膳に嫁ぐ
※鍋の化粧料五百石。忠利が出したという。南条家は元豊臣の家臣で名門
清正に仕えて宇土城を預かっていたが、後細川家に移る・忠利の末息が元信の養子となっている。
1630 寛永 七年 忠興、僧になっていた四男立充を還俗させて、立孝と改名させ、宇土支藩を継がせようとしたが、立孝は忠興より前に死去する
1632 寛永 九年 徳川秀忠没
加藤氏改易、忠広は配流
忠利、肥後へ移封さる。五十四万石
忠興、八代城(隠居領)へ入城
1637 寛永十四年 阿蘇山噴火。
天草・島原の乱が起こる・細川も参戦
1638 寛永十五年  原城落城・乱終結。天草は山崎家治所領となる
1639 寛永十六年  忠隆、父忠興と和解・のち忠利の家臣(知行三千石)となる
1641 寛永十八年 細川忠利死去・56歳。光尚継ぐ
鎖国体制完成
天草支配者交代・山崎家治、讃岐丸亀へ移封、天領となり代官鈴木重成着任。
郡中行政区割り・10組86ヶ村・1町。大庄屋、庄屋を配置
中村五郎左衛門興季(興秋の子)、御領組大庄屋役拝命
1642 寛永十九年 興秋死去。60歳。長興寺に葬られる。戒名・長興寺殿慈徳宗専大居士
1643 寛永二十年 肥後地方で地震
1645 正保 二年 三斎忠興死去・83歳
宮本武蔵歿
鈴木重成、御領に月圭山芳證寺を建立する
1646 正保 三年 忠隆(興秋の兄)死去
1648 慶安 元年 東向寺、国照寺建立・重成、寺社領総高三百石の証状発す
御領芳證寺は十二石、内二石を長興寺に与えられる 
1653 承応 二年 鈴木重成、江戸で病没(66歳)
1655 明暦 元年 天草二代代官鈴木重辰着任。
1664 寛文 四年 鈴木重辰京都代官へ。天草は私領となり三河国田原城主戸田忠昌領となる
1670 寛文 十年 御領組初代大庄屋・中村興季死去
1689 元禄 二年 興秋の長女鍋死去。79歳・ 戒名 香雲院梅室理清
1710 宝永 七年 五月二十五年 三代御領組大庄屋長野茂辰(二代興茂嫡子)死去
1714 正徳 四年 三月十九日 五代御領組大庄屋長野茂相(三代茂辰嫡子)死去
1715 正徳 五年 七月二十七日 四代御領組大庄屋長野茂直(三代茂辰弟)死去
1721 享保 六年 九月十五日 二代御領組大庄屋長野興茂死去・80歳
1774 延享 元年 中村隆成(天錫)生まれる
1747 延享 四年 四月二十二日 六代大庄屋中村茂勝(五代茂辰三子)死去
1766 明和 三年 四月十三日 七代御領組大庄屋中村茂済(成勝嫡子)死去。44歳
1770 明和 七年 大庄屋に苗字御免
1789 寛政 元年  ※ 三月十七日 中村天錫(八代中村喜七郎隆成)死去。46歳
1794 寛政 六年 大庄屋へ帯刀御免
1802 享和 二年 九代長岡興道、興秋の墓を建てる
1815 文化十二年 十月七日 長岡興道死去。67歳
1830 天保 元年 十一月二十三日 十代御領組大庄屋長岡興生京都にて客死
1845 弘化 二年 御領組大庄屋長岡興就、農民の窮状を老中に直訴し捕えられる。
時に興就27歳?
1846 弘化 三年 弘化の仕法出る
1847 弘化 四年 弘化の大一揆、1万5千余の農民参加
1849 嘉永 二年 弘化一揆の首謀者として永田隆三郎ら処刑さる。
長岡興就、江戸勘定所より、乱心の故を以て缺所を仰せつけられ、親類預けとなり佐伊津村に蟄居する。
御領組大庄屋長岡家潰える
1853 嘉永 六年 欠役となっていた御領組大庄屋に、銀主小山清四郎が仰せつけられる。
ただし、村内に不満が起き、清四郎退役させられ、跡に宮地岳庄屋中西亀勇太と井手組大庄屋長島が争い村内紛糾する。翌年になり、やっと亀勇太の子、中西東之助に決定する
1869 明治 二年 長岡五郎左衛門興就死去・73歳?・興就院直宗英気居士
 

 
細川興秋関係記

 長岡家系譜
   

 興秋は、天草に来てから、宗専と名乗っている。
 その、宗専の子孫は、代々御領組の大庄屋を勤めているが、長岡姓を名乗ったのは、九代目興道の時からである。それまでは、中村や長野姓を名乗っている。これは何を意味しているのだろうか。つまり、細川本家(肥後熊本藩主家)に対する、はばかりからであろうか。一方熊本細川家も、天草細川を徹底的に無視してきている。それは、敵方大坂に付いたこともあろうし、興秋がかつてキリシタンであったためであろうか。興秋は、自害したという手前、生きていたという事では、徳川の手前、具合が悪いこともあったろう。
 宗専は、死ぬ間際、自らの出自を始めて明らかにしたという。それは、世を忍ぶ身から、苗字を伏せていたが、自分は細川三斎の二男で興秋であると。
 代々伝えられてきた家伝を、享和二年、時の大庄屋長野五郎左衛門興道の求めに応じて、書き写したのが、残されている。

 その家伝書が、『天草史談 第7・8号』天草史談会 に、掲載されているので、ここに書き写す。旧字体は新漢字に書き改め。
 細川同族天草長岡家系譜  

享和二年壬戊六月十五日、天草郡御領の大庄屋長岡五郎左衛門興道が求めに応じて、其家伝等を聞きしまゝに、書写しおくものなり。
     肥後高橋司市  斎藤権之助 書判印
     細川興秋朝臣七世孫長岡五郎左衛門
                源興道謹撰之

 (細川興秋朝臣とあるが、興秋は無位無官であるから、朝臣は誤り)

 細川与五郎源興秋入道宗専

足利義晴将軍二十四歳の落胤、長岡兵部大輔源藤孝入道、二位法印幽斎玄旨の孫也。
豊前宰相羽柴越中守源忠興入道、三斎宗立の第二子也。細川与一郎源忠隆之弟、肥後少将細川越中守源忠利朝臣の兄也。
母者、明智日向守光秀の女也。慶長五年秋七月十七日、於大坂邸中自害焉。号秀林院殿。
初興秋公の在小倉也、為其叔父、細川玄番頭(興元)所養、為嗣矣。
慶長六年冬、興元有故遁豊、小倉矣。
忠興公、因使興秋居豊、中津城也。
(同)十年、公将使興秋質江戸矣。興秋不肯焉。公強行の矣。
興秋不得己而到干京師不行也。飯河肥後強の、興秋剃髪以遁矣。
干後、応内府秀頼公の命、入干坂城。元和元年坂城陥矣。興秋叉遁而、在京師稲荷山東林寺、公俾松井右近自害焉。
 
家伝に云、宗専様御事、天正十一癸未年御誕生。行年六十歳にて、覚永十九年壬午六月十五日、御病死被成候。御法名、長興寺殿慈徳宗専大居士、葬禅宗長興寺。 本尊薬師如末、寺領高弐
石、並境内御證文有リ 尤も芳證寺支配なり。
叉云、宗専様御病気にて、御大切に相見え候時分に被仰候は、我等は細川三斎二男にて候へども、様子有之親より勘気を請け候而、如此世を忍び罷在候ゆえ、当時迄苗字をも名乗不申、共方どもへも何とも不申聞候。
右之通故此以後とても、長岡細川の苗字など、決而名乗不申候様相心得可申候。
叉我等平日着用いたし候九曜の紋、叉は丸ノ内に二つ引両の紋附け候事も、尚遠慮すべしと堅く被仰聞置候而、御薨去被成候旨申伝候事。

忠興公御年譜に云、慶長六年十二月中旬、幽斎公初而豊前中津へ御下向被成候御悦に、細川玄番殿(忠興公の御舎弟与十郎興元也) の御名代与五郎様、小倉より中津ヘ御出被成。
玄番殿は御風気故、私を被遣候との口上にて候へども、忠興公御不審を被立、其方は玄番に逢申候かと被仰候へば、いや逢不申と御請被成候。
明る日小倉より飛脚至来、玄番殿当所を御立退に候と、小倉に相残る侍共より書置相添へ注進申上候ヘば、忠興公御意に、丹後にては与十郎、松井(佐渡守也)よりも小身なるを相身代にして弐万五千石遣し候に、無理なる不足と被仰しなり。
或記に云。玄番殿小倉の城へ被差置候而、松井佐渡守と両家老職なり。
忠興公二男与五郎興秋を養子とせられ、是も小倉に御居住なり。
玄番殿は陪臣となるを憤り、黒田甲斐守長政に内通し、小倉の大橋に黒田氏より船を被越候に、玄番殿其船に乗りて立退被申候。
与五郎殿は、中津へ御名代に御越候節、直に中津へ御居住なり。

一又云、慶長九年甲辰の夏、忠興公小倉に被成御座、御積り痛み火事に御煩ひ被成候が、内記忠利公(与五郎興秋弟)を御家督に被成度との御事にて候処、両御所様より御願之通被仰遣候て被仰出候は、忠興存命の内に内記対面いたし候様にと、岡田太郎左衛門を御使に被仰付、忠利公御同道にて、江戸より豊前へ御下向被成候。御証人己後、江戸より始め而上方へ御上り被成候。八月十二日に江戸発足なり。

一又云、慶長十年三月、内記(忠利)様の御代りに、御二男与五郎様(始め忠以、後に忠秋、又後興秋)証人として江戸へ御下向之処道より御逐電被成候。依之長岡兵左衛門重政を、証人代りに御下し被成候。
右内記様は、慶長五年正月江戸へ御下り被成、慶長九年の秋御上り被成候。

一米田監物家記に云、慶長十年与五郎興秋公、江戸ヘ御出被成候様に被仰候処、興秋公会て無御承引候間忠興公御立腹被成候而、御父子御間柄悪敷く被為成候。
されども右之通之首尾にて、江戸へ御下り不被成候而は不能成事ゆえ、御用意等相調へ候うへ、長岡肥後(飯河豊前之子忠直也。知行六千石、豊前小馬猿岩石城主也)へ被仰候は、偏に頼
みに被思召候間、与五郎様へ御異見申上候而、江戸へ御供仕り届可申旨被仰候。
肥後承り、唯今私一命は差上可申候へども、此度においては御免被仰付候様と再三御断申上候処、甚だ御立腹被成候も被仰候は、命より三世の忠恩に存候、罷越し候而与五郎と江戸へ下り候様にと之御意によつて、肥後難奉辞此うへは不及力候間、奉得御意候。
されども三度迄は御諌言可申上、其うへにも無御承引候はゞ、興秋様之任御心と申捨て、則ち興秋様へ申上候に、何之支へもなく豊前御発足被成候而、京都建仁寺之塔中十加院へ御着被成。御逼留日を経て、江戸御下り御延引被成候間、肥後度々御催促申上候へども、与五郎様無御発駕、被為成御座候ゆえ、肥後強而御諫言申上候へば、興秋様被仰候は、明日は是非御発駕可被成候之由相極る。
翌日御用意調へ候うへ、肥後罷出候へば、興秋様早や剃髪被成、十徳にて御対面被成被仰候は、肥後最早申分も有るまじく候、帰国仕り此通可申上と。
御供衆も不残被召出被仰出候は何れも是迄御届申満足に存候、みなみな帰国いたし相勤候へと被仰聞候而、其まゝ奥へ御入被成候。
肥後も不及力、豊前へ罷下り、此段具に忠興公へ申上候処、以の外御機嫌悪敷被仰候は、肥後へ申附候時分、請け方あしく存候に付、其場を返し申問敷存候へども、其通にてさし置候とて、又飯河豊前宗裕も同罪也と、親子一同に閉門被仰付、同七月廿七日みなともに、仕納に被仰付候。

一又云、右与五郎様江戸へ御下り不被成候儀は、右慶長九年内記様を御家督に御願被成、翌十年四月に従四位侍従に御叙任被成候。興秋公は御舎兄ながら無位無官にて、江戸へ御下り可被成様無之とて、右之通御逐電被成候よし。其節に尤成る事との風説、専ら御家中に流布せしとか。
又云、忠興公之御二男興秋主、初は長岡玄番頭殿之御養子に被冗成候而、玄番殿と御一所に御座候ひしが、玄番頭殿慶長六年十二月、豊前被御立退候以後は、中津の城に被召置候。
同十年二月江戸へ証人に御越被成候道より御逐電ゆえ、御浪人にて候まゝ、秀頼公に御味方有之、慶長十九年に大坂に御籠城被成候に付、両御所様不届に被思召候へども、忠興公無二之御忠義によつて、与五郎様を御赦免可被成候との上意にて候へども、忠興公御承引不被成して、元和元年乙卯六月六日、松井右近に被仰付.山城国稲荷の東林院において御切腹被仰付候。御最後之体神妙にて、人々感涙を催せりとなり。

一家伝曰、右宗専様御事、大坂より御浪人被成候而、尾州春目部郡小田井村に暫く御忍び被成、夫より直に肥後国天草郡御領村に御居住被成候て、宗専様と奉申候よし。
右謹而按ずるに、元和元年六月六日忠興公より松井右近に被仰付、山城国稲荷の東林寺にて興秋公を御切腹に被仰付候時之忠興公御意には、多田の満仲の御子に美女丸と申者有之候。其美女丸悪行をなし申候により、父仲光公より美女丸の首を打候様に其乳父仲光に被仰付候処、仲光其子を以て美女丸の身代りと
なし申たる事を御咄被成候て、勝れて見事なる金拵への大刀を右近に被下、此太刀にて与五郎が首を討候へとて、御渡し被遊候とか。
これによつて右近心得候而、与五郎様を御切腹の体にてなし、右近通遁し奉りしなるべし。

一右之通宗専様死を御遁れ被成候事は、秀頼公大坂にて御死去被成候旨には候へども、当時薩摩の国谷山の木下名に御墓あり。

御子孫あり、真田左衛門佐の子孫も、さつま又は肥後にも有之、秀次公の御墓、これ又薩摩にあり、与五郎と一同に米田大監物大坂に籠城すれども、後叉細川家に仕へし類なり、怪しむべからす。

一御法名を宗専様と奉称し事は、忠興公後には三斎宗立様と申奉り候ひければ、その宗の字を御取被成候而、宗専様と奉申候なり。

 以下、大庄屋初代から十一代及び長岡家十一世迄の系譜が載っているが、解説文で記す。

初代 中村五郎左衛門
 幼名與吉。
 母は佐伊津村金浜城城主、関主水の娘。
 関主水は、立家彦之進で、寺沢志摩守に仕え、名を得たる武士で、若年時には数度の軍功を挙げた。(注:関主水と立家彦之進が同一人物か不明・別人物説有)
 元和元年の大坂の陣にも出陣し、遂に討ち死にする。
 その娘は、中村半太夫が養育していたが、宗専が召し抱え、妾となって男子を生む。これを與吉である。
 寛永十八年の春、興季は大庄屋に仰せつけられた。この役儀を仰せ付けられても、苗字がないのでは困り、宗専にもともと何という苗字であるかと尋ねたところ、宗専が言うには、我が家にその家系図は無い。したがって、何なりと名乗ればいい。そのため、母の育父中村半太夫の苗字を取り、中村五郎左衛門興季と名乗ったという。
 この大庄屋を仰せつけられたことに、本人はもとより、家僕、近隣の者大いに喜んだが、宗専は、それほど悦び有難きとは笑止千万であると、大いに笑ったという。
宗専にしてみれば、弟忠利は肥後五十四万石の大名。それが我が息子は、苗字を名乗れる日陰の身。その落差に、大庄屋ごときに喜ぶのがおかしいと、思ったことだろうか。
 宗専が臨終の際に、自分は細川忠興の二男であると話したため、中村の名を改めて、長岡の長を取り、長野と称して、孫の宗左衛門興茂より、長野と名乗ることにしたよし。
 △△松△英枝居士・寛文十年△月十七日卒。


二代 興茂 長野宗左衛門
 父興茂の家督を継ぎ、大庄屋となる。幼名五郎太。
 母は、長崎町年寄高木勘兵衛の叔母。戒名潤相妙徳大姉。?年十一月七日卒。 
 ある年、天草郡忠中の馬が多く死に、農業がなり難くなったため、幕府より金千両を拝借し、薩摩国へ馬を買いに行った時の事。薩摩藩より五百石で召し抱えたいとの言われた。しかし、彼は五百石の知行より、天草の大庄屋を勤めた方が、勝手が良いと断ったという。
 戒名、瑞龍庵一翁△△居士。享保六年九月十五日卒。享年80歳。禅宗芳證寺に葬られる。 

三代 茂辰 長野五郎左衛門
 父興茂の家督を継いで大庄屋となる。父の諱の一字を取って、茂辰と名乗る。
 戒名、仁光了義居士。宝永七年五月二十五日卒。


四代 茂直 長野彦八郎
 父二代興茂。三代茂辰の弟。兄の子が幼若のために、茂辰の養子となり、家を継いで大庄屋となる。
 戒名、久雲元昌居士。正徳五年七月二十七日卒。

五代 茂相 長野半左衛門 
 茂辰の嫡子。幼名五市平。茂直に子がなかったため、茂直の養子となり、家督を継ぎ大庄屋となる。
 戒名、東遊浄帰居士。正徳四年三月十九日卒。


六代 成勝 中村五郎左衛門
 茂辰の第三子。茂相に子がなかったため、弟の茂勝を養子とし、家督を継がせ、大庄屋となる。
 幼名、四郎太郎。中村の政に復したのは不明。
 戒名、長屋宗寿居士。延享四年四月二十二日卒。


七代 茂済 中村養左衛門
 父茂勝の家督を継いで大庄屋となる。 幼名、喜代助。
 戒名、国電永治居士。明和三年四月十三日卒。享年44歳。


八代 隆成 中村喜七郎
 号、天錫。幼名兼助。
 延享元年生まれ。
 戒名、台獄智鑑居士。寛政元年三月十七日卒。享年46歳。
 妻は、小山清兵衛の娘梅子。
 詳細は、別記。


九代 興道 長岡五郎左衛門
 寛延二年六月二日生まれ。隆成の弟。
 隆成は庄屋見習い中であったがも病身という事で、兄の養子となり、家督を継ぎ大庄屋となる。
 明和七年二月、大庄屋に苗字御免となり、これによって、長岡の姓に復して、長岡五郎左衛門源興道と名乗る。
 なお、寛政八年九月十一日には、帯刀御免あり。
 宗専が天草に隠遁するとき、渡辺九郎兵衛、長野幾右衛門を召連れて来た。その九郎兵衛の子で半四郎、さらにその子の 渡辺理兵衛という者が、70余歳まで存命していた。
 この理兵衛が、興道に話したことを、手記したのが、先の家伝である。
 黒兵衛子孫は、当時の渡辺順平で、長野幾右衛門の子孫は今の長野保助である。今なお血脈絶えず、お家は繁盛している。

 宗専以来、伝えられている品
  刀一腰無名
  茶釜一ツ
  家康、秀忠、家光公各御状
   ただし、三状とも、文言なし。
   月日付き、名判までで、宛所なし。
 これは、宗専が世を忍ぶ身のため、文書宛所はみな切捨てたものと見える。
 この他、九曜と二ツ引両の紋付衣服が残っていたことを、興道が若年時に見たことがある。
 興道まで、九代の大庄屋役を継ぎてきたが宗専からは七世の孫になる。ここに至って、長岡の氏を名乗り得るのも、宗専の遺徳である。


長岡惣左衛門
 安永三年(1774)六月十五日生まれ。
 幼名千一郎。隆成の嫡子。興道の養子となる。
 大庄屋見習い中の寛政十一年十月二十二日病没する。26歳。
 区政を行うに、村民からその徳を、孫子の慈母を慕うが如く親しまれていたという。惜しいかな大庄屋見習い中の寛政十一年巳未十月二十二日病没する。歳わずかに26歳。
 戒名、篤山良厚居士。この戒名からも村民から慕われていたことがよく分かる。


十代 長岡五郎左衛門興生
 寛政六年九月五日生まれ。
 興道の末子。幼名宗之丞、のち業之輔。
 長岡惣左衛門見習い中に死去したため、養子となって、五郎右衛門を称し、大庄屋となる。広瀬村の庄屋も兼ねる。
 京都旅行中、旅先で、文政十三年(1830)十一月二十三日病没。37歳。
 戒名、専光院一應玄致居士。


十一代 長岡五郎左衛門興就
 文政初年の生まれ。興生の嫡子。幼名与七郎。
 性剛毅にして任侠あり。弘化二年小前百姓の意を体して質地請返しのため、敢然江戸へ出て、出訴の挙に出る。
 その咎により、長崎奉行所へ送られる。これが口火となり、弘化打ち毀しの異変が勃発するや、吟味のため長崎より富岡の獄へ投ぜられる。嘉永二年江戸勘定所よりの判決で、乱心の故を以て、闕所を仰せつけられ、親類預けとなり、佐伊津村へ蟄居する。
 明治二年九月十五日卒。戒名、興就院直宗英気居士。
 妻は、中村庄屋の別家波多野氏の出、ヨシ。

 興就を以て、長岡家は大庄屋から退く。
 以下略。

  
 

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  長岡家墓地 


 芳證寺墓地に、長岡大庄屋家の墓所がある。
 流石大庄屋家だけに、大石塔が並んでいる。
 この墓地に、興就の墓もある。


 《説明板》
  長岡家墓地 
       天草市五和町御領 芳證寺墓地

 中央に長岡家の始祖細川与五郎興秋公(細川忠興公とガラシャ夫人の第2子)の墓碑があり、大庄屋、九代長岡五郎左衛門源興道が享和二年(1082)に再建したものである。向って右端には弘化二年(1845)農民の窮状に堪えかね百姓相続方仕法の復活を願い江戸幕府へ直訴をした義民、第十一代大庄屋、長岡興就公の墓碑がある。なお長岡家歴代の古墓地はこの地の東側に存在する墓碑群がそれである。
 
中村天錫と正倫舎

 細川興秋の子孫に、二人の傑物が出ている。
 その二人、即ち、中村天錫、長岡興就について、やや詳しく記す。

 中村天錫

 中村喜七郎隆成。
 延享元年(1744)~寛政元年三月十七日
 幼名兼助。幼にして学を好み、佐伊津村の中村頤亭に就き学ぶ。のち、唐津の学僧大潮に師事して漢学を修め、また長崎に遊学、唐館に至り、語源の研鑽に勉める。深遠、漢学に通じ、詩文を能くする。 
 大庄屋見習い中、感じるところあり、病身を理由にして、弟興道に家督(大庄屋職)を継がせる。
 師頤亭の跡を受けて、私塾正倫舎で子弟の教導に当たる。
    〈天草近代年譜より〉

 明和二年(1765) 三月 江戸役人支配勘定岸本弥三郎、普請役内藤源八郎上下8人、天草に入る。
その一行が、三月九日に御領村に入る。雨が降っていた。御領組大庄屋見習中村隆成、父に代わりこれら一行を村口に迎える。その際、雨傘を差し、高下駄であったのを、幕吏が咎め、いたく叱責する。隆成は下駄を脱ぎ、雨中に土下座・平伏を強いられる。
隆成、如何に身分社会といえど、心中穏やかならず、大庄屋の職を放棄すべく決意する。
 明和三年(1766) 四月十三日 御領組大庄屋養左衛門茂済死去。
茂済の嫡子隆成(23歳)は、病身の故を以て就職せず、弟興道(18歳)に家緒を継がせる。
五月 中村隆成(天錫)、平素抱ける漫遊の志を果たすべく、郷を出て、京摂の諸大家の門を敲き、経学詩文を学ぶ。
 明和四年(1767) 九月十七日 佐伊津村出身の儒者中村頤亭歿する。御領村芳證寺実明に師事し、のち同村に正倫舎を開塾し、子弟の教育に当たる。同門より碩儒中村天錫を出す。
 寛政元年(1789) 三月十七日 御領村(長岡家8代)儒者、中村喜七郎隆成天錫歿する。46歳。
そのために私塾正倫舎廃絶する。
 
 中村天錫先生の墓 

  天草市五和町御領  芳證寺墓地

 儒者 中 天錫先生の墓

 御領組大庄屋七代中村養左衛門茂済の嫡子、中村喜七郎隆成、天錫と号した。22歳で大庄屋見習いとなったが、病身のため大庄屋職を弟に譲り、明和3年(1766)京都・大坂に出五年(1768)中村頤亭没後、義父小山清兵衛(大島郷)の援助を得て、子弟の教導に当たる。寛政元年(1789)46歳で没したために「正倫舎」も廃絶した。

   御領まちつくり振興会
 
 
私塾 正倫舎

 中村天錫は師中村頤亭が開塾した「正倫舎」を頤亭没後、引き継いで、子弟に教えた。
 天草でも幕末になると、各地に多くの私塾が開かれた。中村頤亭が開いた正倫社は、この先駆塾もいえる。
 正倫舎は、天錫没後、銀主小山清四郎、柏木辰五郎と間をおいてだが、引き継がれた。 

 宝暦十年(1760) 御領村儒者 中村頤亭、私塾正倫舎を開設。 
 明和三年(1766) 中村隆成(中天錫)、郷を出て、京大阪の諸大家の門を敲き、経学詩文を学ぶ。
 明和四年(1767) 中村頤亭死去
 明和五年(1768) 中天錫、小山清兵衛の後援を得て、正倫舎を受け継ぎ開塾する。
 寛政元年(1789) 中天錫死去。46歳。正倫舎廃絶する。
 文化元年(1804) 小山清四郎、開塾。正倫舎を再開
 嘉永元年(1848) 柏木辰五郎、正倫舎の後を引き継ぎ玉壷堂を開塾。

 
  中村頤亭の墓

  天錫の墓と同じ芳證寺墓地にある
 

 
長岡五郎左衛門興就

 長岡興就は御領組大庄屋であったが、貧苦に喘ぐ百姓のため、身を棄てて幕閣に直訴を行った。その後に起きた弘化一揆の指導者、栖本村庄屋の永田隆三郎と共に、義民として称えられている。
 天草市五和支所の入口に、直訴状を掲げる興就の像がある。この像の御蔭で、五和町の人は、興就を知らぬ人はいないだろう。

 天保二年(1831)九月三十日 御領組年寄4名、百姓代4名を富岡役所に召喚し、故長岡業之助の嫡男与七郎〈当時14、5歳〉を御領組大庄屋見習いを仰せつける旨を申し渡し、一同に承伏の請印を押させる。
 興就の父、10代興生は、前年十一月二十三日、京都を旅行中疱瘡に罹り、他行先で亡くなっている。また、御領村では、貯穀蔵に盗賊が押入り、この責任問題を巡り騒動になっていた。また、嫡男興就が幼いこともあり、御領組大庄屋は、本戸組大庄屋木山十之丞に兼帯、志岐組大庄屋平井達治に御領組取締を命じられていた。

 興就大庄屋職にあること13年の弘化二年(1845)、興就動く。
 寛政の仕法は、画期的な徳政令であったが、期限切れしてから6年。百姓は困窮を極めていた。再び仕法の復活を願い、興就は当局へ願いを出す。
 しかし、そう簡単に願いが叶うことはない。業を煮やした興就は、江戸表に直接掛け合うことにして、数人の仲間と天草を発つ。弘化二年(1845)のことであった。
 たまたま長崎奉行が江戸に発つので、それに同行しようとしたが、一足先に奉行は長崎を発っていた。小倉でやっと奉行一行に追いついた興秋は、願書を奉行に差し出す。
 奉行は、これを受け取り、江戸表へ上達すると約束する。幸先良いスタートであった。
 十一月、奉行のお供で江戸に着いた興就たちは、直ちに長崎代官江戸詰役に引き合わされた。ここで、銀主たちと和解し、穏便に事を済ませるように説得され、願いとは異なる形勢逆転に驚いた興就一行は、この上は正面突破しかないと腹を固める。
 そして、長崎代官高木作右衛門を相手取り、勘定奉行所へ駆け込み訴に及ぶ。だが、訴えを退けられるばかりか、身柄は町宿預けと拘束される始末。
 興就は、密かに宿を抜け出し、行方不明となる。当然お尋ね者となった興就は、老中安倍伊勢守に突如駕籠訴に及ぶ。
 身を挺しての訴えは、一旦取り上げられたかに見えたが、形勢は逆転し、却下の上、身柄は長崎代官所江戸詰めへ引き渡され、縄付き入牢となる。

 しかし、これが幾らか功を奏したか、もともとそのつもりであったかわからないが、興就入牢中の弘化三年一月、2回目の仕法が発布された。本来なら万々歳といきたいところだが、先の寛政の仕法と比べ、はなはだ内容は劣り、小前百姓たちの満足のいくものではなかった。
 さて、興就はどうなったか。弘化三年冬になっても、長崎の牢獄に繋がれたままであった。この興就たちに同調する声は、郡中に怨嗟し、栖本古江村の庄屋永田隆三郎らの指導で、ほぼ全群を巻き込んだ一揆へと発展していく。一揆に参加した農民は1万5千余人に及ぶ大一揆となった。これを弘化の大一揆といい、また第二の天草の乱ともいう。
 弘化一揆の後、興就は吟味のため長崎より富岡の獄へ移され、嘉永二年になって、江戸勘定奉行より判決が出される。
それによると、乱心の故を以て闕所仰せつけられ、親類預かりとなって、佐伊津村に蟄居する。
 明治二年九月十五日死去。
  法名、興就院直宗英気居士。芳證寺の長岡家墓地に眠る。

 

 長岡興就像  
   天草市五和町御領 天草市五和支所構内

  御領組大庄屋 
   長岡五郎左衛門興就公 

 興就公は天保三年(1832)父、興生公の死去により十六歳で第十一代御領組大庄屋となりました。
 そのころの天草は、ひでり、作物病虫害、風水害、はやり病、大火などに加えて、幕府が取り立てる重い年貢米のほかに、諸経費として法外なお金を割り付けるなど、自然災、人災が容赦なく島民を苦しめたのです。
 永年に亘るこのようなくらしの惨状を憂えた興就公は、富岡代官所に出向いて島民の生活苦を訴え、救済方を再三に亘って願い出ましたが、代官所は聞き入れませんでした。
 そこで興就公は意を決して江戸に上がり、弘化二年(1845)十二月、江戸幕府老中筆頭阿部正弘公の登城途中に「天草の百姓が安心して農漁業を続けられる仕法(法律)を公布してほしいと、幕府が厳しく禁じた「直訴」を命がけで行いました。
 その結果「天草百姓相続方仕法」が公布され、島民は大いに救われました。

 
  長岡興就寄進の鳥居  
   天草市五和町御領 御領神社

 御領神社には、興就寄進の鳥居が現存する。
 鳥居には、
    天保十一年庚子年 秋七月下旬敬立
      願主 長岡五郎三郎 源興就
         下浦村 石工 大塚重左衛門
                 金子権三郎
 と刻まれている。
  天保十一年は、興秋が江戸へ直訴に上る、弘化二年の5年前である。
 興就の〝願〟にどんな願いを込めて寄進したのだろうか。
 この鳥居は、天草市の指定文化財に指定されている。その説明文は以下の通り。

 
  天草市指定文化財  御領神社二の鳥居
                    指定年月 平成3年2月15日
                    所 有 者 御領神社 

 この鳥居は、十一代御領組大庄屋の長岡興就により奉納されたものである。
 興就は農民救済のため、当時ご法度である越訴を行い、「百姓相続方仕法」の再発布を懇願した人物である。その後、仕法は発布されたが、興就は越訴の罪を問われ入牢、その後一時帰宅を許されるが、弘化四年(1747)の一揆の後、首謀者である古江村庄屋の永田隆三郎と共に捕えられ、四年後には大庄屋役を没収されている。
 興就は明治二年に没し、墓地は芳證寺境内にある。この鳥居は越訴の七年前に建立されたもので、柱に「願主 長岡五郎三郎源興就」とあり、興就の悲願の程が伺える。
  平成21年3月
     天草市教育委員会

 
  長岡興就の墓  
     天草市五和町御領 芳證寺墓地

  興就院直宗英気居士
    明治二年己巳九月二十五日卒
      細川十四世孫 長岡五郎左衛門
                 源興就

 長岡興就の墓
 中に興就、右に妻ヨシ、左に長男の戒名が刻まれている。
 建立は、明治七年
 

芳證寺


 「天草史談」8・9号に芳證寺について、次のように記している。若干堅い文章だが、転載する。

 
月圭山芳證寺

  伽藍及び境内  

 月圭山芳證寺は、天草郡御領村の中央字城内に在りこの地は、鎌倉末期天草家の出城あり、足利末期には切支丹教会所ありし地にして丘阜上約二千坪の平地を有し、眼前黒崎の勝景を控え上天草を背景として有明海の風景を恣まゝにす。
 正面に九間四面の本堂あり、その後には奥行十間の開山堂、左側に問口七間の主寮、右側に玄開を隔てヽ間口十五間の庫裡及付属建物あり、別に茶室用の亭並びに三階建倉庫あり、叉外庭の西南隅には鎮守殿東側には総高さ一丈六尺の観世音菩薩大石像あり、更に石段を上りつめし東側には鐘楼あり、真に七堂を完備せる大伽藍である。

  鈴木代官両親善提寺

 当寺は正保二年、代官鈴木重成幕府の命を受け建立せるものである。
 当時重成は、切支丹一揆後の思想善導政策上、二十余の佛閣を建立したのであるが、特に当寺をもつてその両親の菩提所と定めた。即ちその先考月岩證心居士、先批圭壁貞芳大姉の法号をとり、山号及寺称とした。蓋しこの地は、重成赴任後陣屋の出張所として別館を設けた所で重成とは因縁浅からぎるものがあつた。
 承応元年秋「佛殿既に就りたるを以て周防図瑠璃光寺十五世、本郡束向寺始祖桂文和尚を勧請開山となし、益峰快学和尚をもつて住持とし、寺領十二石を幕府に稟請して寄進した。

  両度の人災と復興

 二世益峰快学師遷化後、数年間光隣和筒監司の時、火を失して堂宇悉く鳥有に帰す。三世万融快元師の代には遂に復興に至ちす、次の代密厳道国師に及び、正徳三年六月、大庄屋中村彦八と再建を発願し、力を合わせて計画書中、正徳五年二月彦八死亡のため一頓座を末したが、佐伊津村庄屋中村惣兵衛、八方奔走助力するところあり、享保二年正月より愈よ客殿の普請に着手し、翌三年六月客殿並びに石段は完成したが、その他の工事行悩み遂に日本廻国托鉢を思ひ立ちしも.大島小山清兵衛初め、巨額の寄附を申し出たので着々として進渉し、享保五年八月に至つて悉く落成した。
 然るに十一世玄魯素黄師の代、寛政十年間前の民家より出火し、堂塔伽藍悉く類燒した。玄魯師その復興に仝力をなげうち翌十一年本堂を再建したが、一切の完成までには数代を要したらしい。

  開山中華珪法

 石見国津和野の産、同国永明寺天粧和尚に就いて剃髪、周防国瑠璃光寺年叟和尚に参し修法多年、途に衣孟を伝へられ、大中寺参門、吉祥寺洞谷に参して印可を受け、慶長年中叟の跡を襲ひ、後永明寺に住し、法雷大いに震ふ。正保四年九月、鈴木代官の懇請を容れて天草に来化す。在住十六年にして寛文三年九月二十一日示寂、世寿七十六歳

 芳證寺は、鈴木重成の菩提を弔うために建立された。そのため、山号寺名は両親の戒名から取られたという。


芳證寺本堂

鈴木重成の筆といわれる
寺額
 
改築の時出土したという九曜の紋瓦
 
芳證寺の寺号の由来を表した幕
 
鈴木重成の父母の位牌